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98.6.28
中田君のこと

 ワールドカップも日本の試合が終わって、熱狂から冷めて次の話題に移動していく人と、本当にワールドカップの楽しさが分かって、これからも楽しみにできる人とに二分されている。
 僕は今回に限っては後者です。ただ元々静岡の出身という事もありまして、サッカーは嫌いじゃないんです。でも、ワールドカップまではみてなかったのね。日本がワールドカップに出てくれたことによって、ワールドカップのおもしろさが分かりました。こういう奴もいるんです。だから、日本代表、どうもありがとう。そして、Jリーグにも、どうもありがとう。これがすべてのきっかけでした。

 中田君のページには、彼のカップ中の心情がメールで記されている。そして、今、その更新は止まってしまっている。気になる人は是非読んでほしいのだが、余計なストレスをこれだけ抱えて試合に出た彼。僕は感謝と同情を感じてしまった。
 期待されたほどの活躍ができなかったとういのがマスコミの言い分なのかもしれない。そしてそれになびくように多くの人がそう言っている気がする。でも、世界を知らない日本人は、ちょっと夢見すぎていたんじゃないでしょうか?
 韓国だって今回、一勝ができなかった。スペインは世界第4位の評価のストライカー、ラウールをしても負けた。日本は?監督が絶対的な経験不足・初出場・ストライカーの不在。ネガティブな事を言っていたら一勝もできないってのは分かるが、無理な夢を見ていること、もう少し冷静に自覚しても良かったんじゃないでしょうか。付け入る隙はあったが、圧倒的に勝てるわけではなかった。博打的な確率ではなかっただろうか。

 そういう無理難題をできなかったからといってマスコミが叩く。それによって選手の身の回りの人が心配し、選手にその心配が移る。身内の心配ほどつらいものはないですよ。そして、世間のバッシングの目ほどつらいものもないですよ。そういうことを助長させてしまったこと、マスコミは考えているんでしょうか?
 中田君は、そういうことにカップ中悩まされながら、疲れながら試合に出ていた気がします。私がメールを読む限りでは。
 でもそれであれだけパスが出せれば、はっきりいって上出来です。かれだってこれで完成される選手ではない。ここからの選手だ。ただ、ジャマイカ戦は疲れで集中がきれてしまったのかなぁ、とは思った。だって、あんなに不用意に笑う選手ではないと思ったから。ま、素人の戯言ですが。

 NHKの中継でテレビに出たいが為だけに騒いでいた連中、消えてくれよ。がっくりしていながらも気持ちを整理してしゃべろうとする本当のサポーターをなぜ邪魔するんだよ。本当に落ち込んだときの気持ち、自分の経験に照らし合わせて分からないか?
 「岡田わび入れろ」「城やめろ」さんざんヤジ言う気持ちも分からないでもないが、行き過ぎはみっともないよ。それにそんなに文句があるんならお前が代表入りすれば良いじゃないか。まだ十八ぐらいの奴だって、二十代の奴だっていたけど、別にゴンだってまだ三十。サッカーうまけりゃ経験なんて年齢なんて関係ないんだ。だからそんなに悔しいなら明日からサッカーはじめて、四年後に代表入りすればいいじゃないか。やってみろよ。できねぇだろ、そんなの?自分ができねぇくせに、なんでそこまで文句言えるんだよ?おかしくないか?

 日本のサッカーに何が足りないのか、といわれた時に「ストライカーの養成、監督の養成、そして日本サッカーレベルの総合的な底上げ」って意見が大多数だ。俺もそれには賛成です。でもさ、「日本サッカーレベルの総合的な底上げ」っていうのはサッカーのレベルの底上げの前に、「日本のレベルの底上げ」ということが大事なんじゃないの?経済、文化、産業、スポーツ。日本のそういった総合的な底上げの中で、サッカーっていう分野も平均的なレベルが上がって、上のレベルもあがって、世界と対等に戦えるんじゃないのか?
 だから、文句を平気に言っていた奴だって、自分が力になることはできると思うんだ。サッカーできなくても自分の仕事とか、あるいは趣味の部分で妥協を少しでもなくして、レベルあげれば日本のレベルの底上げになりうる。そうやって貢献できると思うんだ。そしたらサッカーって分野だってうかうかしてないよ。それで良いじゃないか、と僕は思う。そしてそこまでできる立派な人間だったら、そこまでの過程で学び、けっして「岡田わび入れろ」とか言えないと思うんだ。
 マスコミだって、「ストライカーの養成、監督の養成、そして日本サッカーレベルの総合的な底上げ」って報道しているけど、結局それは自分たちのレベルをあげることが大事だって事だぜ。責任背負えますか?

 中田君はメールの中でそういうことを「プロフェッショナル」と表現してる。そういう事を妥協なく考えている彼だからこそ、マスコミを嫌い、本音がいえない。でも本音をインターネット上でいってくれたこと、本当にありがたいと思う。少なくとも、そこでそういってくれたから、僕なんかは安心できました。だってマスコミが教えてくれる中田君では、あまりに寂しすぎる面がおおかったから。情報はそれだけで、どうしても辛い部分があったので。

 自分の生活のフィールドでがんばっている人がね、「だめだ、あれじゃあ」っていうのはいいのよ。全然。頑張っている人が頑張れない人や、結果についていうのはいいのよ。プロフェッショナルの言葉だから。
 でもさ、不況に文句言い言い、人の成果を待っているような人がね、サッカーに勝手に独りよがりの夢を見てね、だめだったからといって文句言うのはどうかね?

 まあ、ここまで書いてね、じゃあ俺がそこまでプロフェッショナルか、アナーキーに世界を変えているのかって言われたらね、そこまでの現状はないです。実力不足です。はい。でもね、そうなろうとは思ってますよ。人を思いやれない時の恥ずかしさだって持っているつもりです。一つのことだけを盲目的に信じないような心構えでいるつもりです。

 自信過剰じゃないですけどね、そういうこともろくに考えない他人任せの人にね、文句言われるほどひどくもないと思いますよ。
 そしてそれより、一緒にもうちょっと変えてみません?考えてみません?身の回りのこととか。世の中のこととか。そうすれば、サッカーだって勝てるかもよ?

 中田君がプロにこだわること。僕なりに考えてみました。
 ジャマイカ戦、中田のチームに小野が助けに入ってきてその素晴らしい個性を見せてくれて悔しかった。だって、中田君よりすごい才能が見えた気がしたから。でも彼の11分は中田の270分の後ろ盾にあるのも事実。でも、すごかったなぁ小野。
 
 あー、それが悔しい。(小野も好きだけど)
 中田君、ゆっくりやすんで、とりあえずJでがんばって下さい。優勝して下さい。でも海外にいっても責めません。でも、もしそうだったらメール再開して下さい!お願い!  



 心の中のあの人と、本当のあの人






98.6.25
読み返してみて

 今日はネタになるほどのアイディアもなくて、でも何か書こうと思いながら自分の今までのコラムを読んでいました。で、感想なんですけれど、句読点打つ位置がめちゃくちゃですね。読みづらい。

 自分ではそれでも整理して書いているつもりです。でもまだ文章が長い。句読点がおかしい。かなーり暗い気分です、今。

 今日はとりあえずこれだけにしておきます。が、最近の日記風の文章はまだましかなぁ、と思います。でも、どうだか・・・。

 流しには洗い物がたまっています。
 すっげー憂鬱。

 寝ます。
 では。  



 恋愛には大きくいって二つの種類があって、一つは、二人で一緒にいたい「ベタベタ型」。もう一つは、一人になりたい「サバサバ型」。
 これらは、愛情の深さとは全く関係がない。
 (ラジオでスガシカオがいってました。)






98.6.24
自由な土曜日

 先週の土曜日は比較的自由な心持ちでした。
 私は阿佐ヶ谷の駅から通勤しているのですが、駅からうちまで20分。結構遠いです。で、南側に阿佐ヶ谷の駅があるのですが、北側には鷺ノ宮という西武新宿線の駅があります。そっち側にぶらっと散歩に行ってみました。

 普段はあんまり行かない方向なのですが、いってびっくりしたのが「阿佐ヶ谷の駅より近い」ということ。いやーまいった。西武新宿線は乗り換えも多いし通勤には使えないですけれど、「そっかーこっちの方がちかいのかー」と思った。

 駅前は寂れているんですが、でもボウリング場があったり第一勧銀があったりしてけっこう便利っぽい空気もします。が、やっぱさびれっぷりも素晴らしく、息の切れそうな店も結構多いです。お世辞にも阿佐ヶ谷のような勢いはないです。

 駅の近くにサンドイッチ屋さんがありました。白髪のちょい太めのお婆さんがやっている店で、トンカツサンドが230円で売っていました。「パンっ」と太ったサンドイッチが230円。思わず買ってしまいました。消費税はいりませんでした。

 サンドイッチはまあまあの味でしたが、個人でがんばっている店があると嬉しいです。セブンイレブンとかのサンドイッチもうまいけれど、手作りの味ってやつですか?あれはどういう言葉で表現したらいいのでしょうか。ただ、作った人の顔が見えると、しっかりと噛みしめて、味を確かめて食べてみようとは思います。ただただ口に栄養を運ぶに比べたら、大分ましです。

 帰り道にはちょっとした共同の畑がありました。で、その中で目を引いたのが、青いトマトでした。トマトが青いんですよ!
 そりゃぁ、熟れる前は青いなんてのは十分に知っています。でも実物をみてはっとしました。知っていても見てみて初めて分かる感動があります。青いトマトは堅い拳のようでした。あれが赤くなったらさぞ旨そうです。でもまだ青い・・・。そういう想像力が働いてみて、初めて青いトマトが生きてきます。

 スーパーには野菜の結果が、魚の結果がどかんとならんでいます。でも、過程は並んでいないんですね。過程を知ることは仕事にしても遊びにしても大事なことです。結果が形なら過程は意味です。意味を知ることは大事なことなので、もっともっと畑が身近にあったらなぁ、と思いました。過程ってのは日に日に変わるもので、とっても面白いと思います。人間は変化が苦手なので、変化を見守ることで少しでも慣れがうまれればいいなぁ、と思います。

 6月の蒸れたような暖まった風が、僕にぶつかって過ぎていきます。帰り道の小さな緑道は、だんだんと日が暮れていきます。でも、大分日が長くなったなぁ、と思っていると、下宿先がぼんやり見えてきました。  



 風はページをめくることはできるが、本を読むことはできない。
 (近所の古本屋の看板)






98.6.22
セラピー

 今までこんな言葉に現実味を感じたことなどなかったのですが、今日不思議に感じてしまいました。あんまり精神的にいい状態ではなかったので、ゆっくりしてました。

 朝早めに起きたんですが、昼寝してしまって・・・。夕方おきだしたのですが、外にでる用事があったのに外は雨。「あ、夏の天気だ。」と思わず口にしてしまいました。結局、外にはでませんでした。

 部屋で静かにラジオを聞いていました。音楽を聴いていました。たまたまサザンの二十周年のラジオがやっていまして、聞いていました。懐かしい曲がながれてきて、ふと聞き直せば名言がメロディーのなかにあったりして、びっくりしました。

 もう少し時間がたって、久保田利伸のラジオをきいていたら、ジョビン先生のボッサ (ボサノバ)が流れて来ました。風呂に入りながら、静かに聞いていました。すごい音楽の可能性です。少し気分が落ち着きました。

 昔は下手をすれば性格を、人生を変えてしまう様な音楽がいっぱいありましたが、今はそういうのがすごく減ったなぁとは思います。(でもいいのもいっぱいあります。)

 全体的に冷めている感じが否めない音楽界に対して、一抹の寂しさを感じます。今は音楽を供給する側が冷めているというより、音楽を受け取る側がそういう物を要求していない気がします。日本人は利口になりましたが、冷めてしまった気もします。

 「クレイジーな人たちが世界を変える」とアップルは言っていますが、それが正しいなら、これから世の中そんなにかわんないのかな、と思ってしまいます。昔は、自分が何かできる、何かしてやるという野望を、子供のようにいつまでも離さない大人や学生が沢山いました。今は、できないから何かないかと探している気がします。買い物感覚ですね。

 クロアチア戦、日本は負けてしまいましたが、何が悔しいって、あちこちに集まって馬鹿騒ぎしていたサポーターの姿です。日本が負けてテレビの中継がやってきたとき馬鹿騒ぎしているサポーターには、正直テレビに映ってほしくなかったです。ラモスも、選手の文句は言えたくせに、ああいうサポーター(正確にはサポーターではない)には、なんにも言えない訳ね。顔では言ってましたけどね。

 彼らはサッカーという騒げそうな物を探しました。次は何に飛びつくんでしょうか?サッカーも音楽も、とっても可能性のある物です。一生懸命になれる物だと思います。でも、彼らはそこまで真剣には物事に取り組みません。

 確かに彼らはぶっ壊れています。でも、全く未来のない壊れ方をしています。世の中に意味をもたない形などないのに、彼らは形だけを見て意味を見ません。どちらも、だと思うのですが。

 1998年はフランスのワールドカップを堪能しました(まだ、一戦ありますが。)2002年は僕らが、日本と韓国が作るワールドカップです。次回もまたお客さん気分で形だけの人が沢山いるのかもしれません。が、そういう人はもう直らないでしょう。私たちが2002年をどういう風に演出するか、みんなで考えても良いと思います。

 などなど、ラジオを聞きながら色々と物事を考えては音楽を聴いては心を落ち着かせています。

 自分に足りない物はなんなんでしょうか?
 他人に足りない物はなんなんでしょうか?

 自分の持ち物も、他人の持ち物もよく分からないのに、そんなことを考えています。  



 サンバとか、ボサノバってのは国の音楽なんです。
 それをおじいさんも子供も、どんな世代でも共通に楽しめる。
 それがブラジルのすばらしいところですね。
 (ラジオで久保田利伸が言ってました)






98.6.15
月曜日の午前、電車にて

 有給を一日とったので、今日は実家からゆっくり東京に向かっています。
 いま、特急あさぎりという、沼津から新宿への特急にのってパワーブック2400でこの原稿を書いています。
 今日は昨日の雨とはうってかわって非常に天気が良くて気持ちいいです。まるでフランスはトゥールーズの昨日の天気が、今日日本にやってきたみたいです。
 初めてのワールドカップは1-0で負けてしまいましたが、いい試合だったと思います。悔しい部分が多いのですが、それでもあのピッチの上でほぼ互角に日本イレブンが戦えるとは願っていても想像できなかった。それが現実に目の当たりにされて、非常に勇気づけられた気がします。
 多分あの試合を見ていた方、あるいは気にかけていらした方は、力こぶ一つ分くらいは勇気づけられたのではないでしょうか。
 少なくとも、私はそうでした。

 少し日が陰ってきましたが、この特急ロマンスカーは御殿場線から小田急線を経由しているため、山間をとおります。ですので、東海道線のように海を見渡すことはできません。ですが、いくつもの川や、素朴な家並みや橋なんかを所々にみることができるので、それが楽しいです。
 とくにびっくりしたのが田圃の美しさです。今日は日がいいからというのもあるのですが、田圃の苗の一団が風になびいていく様を改めてみて、自然の調和の美しさを再確認した気がしました。また、その隙間には鏡のように水が張り、青い空を銀色に映し返しています。
 田圃ってこんなに美しいものでしたっけ?びっくりしています。

 また日が射し返してきました。
 山間の緑も、空の青さも非常に美しいです。東京にいてもこのような天気の日はあるのですが、ここまで緑や空が美しくみえた記憶が私には有りません。よっぽど、ロマンスカーのガラスがいいんでしょうか?(笑)
 緑もきれいなのですが、日をあびてできる木陰の黒もくっきりと見えて、とってもいいです。今日は月曜日なのにこんな事ができるという心の余裕が何もかもを美しくみせるのかもしれませんが(笑)、それだったら有給はこんな過ごし方がベストだということでしょう。

 静岡の方はとにかく細かい山も多いです。御殿場線は山間を抜けて走る小さな路線ですので、景色もなかなか侮れない。ここまで何本かの川を見てきましたが、この天気を跳ね返すようにきらきらと流れていました。もうこなっちゃうとなんでもきれいに見えるのかもしれませんが。
 川の美しさで気づいたのですが、川の特に美しいところは、川の流れによってできた無数の白い波の集まりと、それらを演出している川縁の石ころの細かさです。透き通るような水を流している川などは特に、うっすらとゆがんだように見える底石の細かさと色とりどりな部分が目を引きます。それらの間に、激しく白い波が沸き立っていて素晴らしいです。

 とにかく天気がいい。
 で、私は12時30分には新宿に着く予定なので、それまでもう少し車窓からの風景を楽しみたいと思います。
 それでは。
 







98.6.14
自己主張

 どちらかというと、私は自己主張が好きではない。
 とはいっても、こういう風にホームページにいろいろと物書きをする以上、自己主張をけっこうしているのだろう。
 けれど、自分の意見が否定されたり通らないからといって、簡単に腹を立てるような事は、あんまりない。
 
 ここに物書きをするのはなぜか。
 自分が正しいことをいっているのだろうか?その問題について正しい答えはなんだろうか?ということを僕は考えたい。答えを知りたい。
 そのためにものを書くし、人から意見を聞きたいと思っている。

 だから、僕は自分の答えが正しくなければそれでもいい。
 正しい答えがわかれば、自分の答えが間違いだとわかれば、それで用が済んでいる。
 別に、自分の意見がとおらないことには腹は全くたたない。
 (でも、理由なしに自分の意見を取り除かれては、それは腹が立つ。「理由は?」って)
 
 だから、冷静に見て、僕は自己主張が好きではないと思う。

 むしろ、人から意見を聞く方が面白いと思うこの頃。
 その口火を切るために、僕はこういう風に物書きをしているのだと思う。

 自分一人では本当の意味では考えられない。
 だから、自分以上で考えたい。他人の気持ちになってみて考えたい、とはいつも思う。

 自己主張も強くなると、相手を屈服させることが目的になってしまうのでそれが怖い。
 結局、うらみつらみが残ってしまう可能性がある。





 これから、日本対アルゼンチンの試合が始まる。
 すげぇ、どきどきしているので驚いている。
 






98.6.13
コンセント

 実家に帰ってサッカーワールドカップの観戦。
 うぉ、すげえ、ナイジェリア、スペインにかっちまったぜ。
 すげぇすげぇ。

 んでもって、私の愛機パワーブック2400を持ってきたので、そのケーブルをコンセントにつなごうと思った訳ね。で、片手でコンセントにプラグをつっこもうと思ったんだけど、ちょいと試行錯誤してまってさ。
 ぼそぼそっと手探りで、やっとこさ刺さった。

 で、思ったんだけど(ってこんなパターンが多いか?)

 人と人との通じ合いってのがさ、コンセントのようにうまくいったらいいのにね。

 なかなか他人の気持ちを受け止める事もできないし、逆に他人の心にぴったりとした自分を作り出すことも難しい。
 さっきの俺はいい加減にコンセントに差し込もうと思ったから試行錯誤して何度か手数をくっちまったけれど、人とのつきあいってのは真剣にやってもすれ違い、ぴったりとはまることはないよね、なかなか。
 相手が何を求めているのか、自分が何を言いたいのか、思っているのか。
 それがまず自分自身分からないよね。

 そして、さらにそれがおぼろげに分かった上でも、相手の求めているものと自分が感じていることが違ったりすることも多々あるわけだし・・・。
 おぼろげにしか分からない自分の心、他人の心だけに、自分でうまく相手の気持ちを自分好み理解しようとしたり、あるいは自分を相手にあわせようと思いこんだりね・・・。とにかく様々。
 (そしてそもそもあわせてみた他人の心に勘違いしていたり・・・。)

 そんな様々で雑多な心の有りようが世の中にはあふれている。

 そう考えてみると、コンセントのようにきっちりと心がかみ合っているつながりが世の中にあるのだろうか?
 例えば、夫婦とか恋人とか友達とか。人によって様々なんだろうが、
 「私たちはコンセント夫婦!」
 みたいな人、いるだろうか。

 もしいたら、それは思いこみか運命の出会いか、どちらかだと思うよ。
 (え、どちらも?)

 そういうの、大事にしてほしいですね。
 僕の周りにそういう人が多ければ、それはうれしいことですから・・・。

 そうでなくとも、僕もそうありたい・・・。

 (ちょっと、最後がうまく書けなかった、と記しておきます。)
 







98.6.9
忘れる能力

 人間の記憶力ってのは曖昧で、大事なことを忘れてしまったり余計なことを憶えていたりする。読み書きしたことも何度も何度も繰り返さないと憶えられない。ああ、読んだこと全部一回で憶えられたらなぁ、と思ったこと。何度も。

 そういう意味でパソコンってのは偉大な記憶装置だ。記憶したことは壊れない限り消えないし、捨てない限りはなくならない。でも、ふと気がつくといっぱいになっているハードディスク。しょうがないから大掃除を始めると、いらないデータがちらほら、がやがや。そんでもってそれらを捨ててみたら、結構な隙間ができて、またしばらくは余裕、余裕。で、また残り容量がなくなって、じゃぁ掃除・・・。

 それから比べると人間ってのは大した記憶力はない代わりに、それでも結構上手に忘れていると思う。今小学校のクラスメイトの名前なんて思い出せない。でも、必要ないから問題もない。もしこれがパソコンだったら、律儀に憶えていて、余計なスペースをディスクの上に占領している。
 パソコンは都合良く記憶を忘れらないんだね。

 人間は忘れっぽい。でもそれは、「忘れる」という能力なんだと思う。忘れることの面白いところは、ヒントがあればまたその記憶を思い出すこと。それから考えると、人間の理性と記憶の間には手がかりの糸が何本か張ってあって、それらが全部切れてしまうと、記憶が「忘れ」られ、その手がかりが補正されると「思い出す」のでは、ないだろうか。

 思えば、思い出したくない記憶、別れの記憶ってのは記憶だけがつらいんではないと思う。それを理性につなげている手がかりの体験も、きっとつらかったりするんじゃないだろうか。普通の体験に比べて印象が強い。だから手がかりの糸がなかなか切れない。数が多い。だから、忘れたくても忘れられない。そんなつらい記憶、誰にでもある気もする。

 あるいは楽しかった思い出が今は辛いとかね。そうなると手がかりの体験も、それに対する感情も複雑で印象が強くて、とてもじゃないけど忘れられないってこと、あるかもね。特に、恋愛とかでは。

 ま、俺はあるよ。

 別れとか、振られたことは正直それほど憶えてない。けれど、辛い言葉とか、悲しかった体験は手がかりが無数にあるから、今でも結構リアルに思い出せる。
 でもそれが普段の生活の中でも忘れられない、ってこともないな・・・。
 大事な時に、ぼーっとしてて、突然ふと、でも鮮明に思い出すことはあるよ。

 うれしいことは黙っていてもよく憶えているから良いんだけれど、忘れるのは難しいね。でも、どうしても忘れられないこと、無理して忘れる必要もあるのかな、とも思うよ。
 痛い思いして、手がかりの糸を切る必要って本当にあるのかな?って思う。自分で消せないものだからこそ、それを消してくれる他人が現れる事もあり得る。別に手がかりの糸を切ろう切ろう思わなくとも、他の夢中になることができれば、知らず知らずにほつれていってしまう気もする。

 ただ、忘れることが自分を変える訳ではないからね。忘れただけではだめで、それからの結果が要だからね。大変なんだけど。

 でも、辛い事忘れられないせつなさってのも想像できる。本当にそれに悩まされる人は大変だと思う。必要なら自分で自分にはさみを入れなければならないのだろうが、それならば痛いけれども、ぜひがんばって手がかりにはさみを入れてほしい、と思う。

 ただ、その時にはさみを入れすぎないでほしい。
 記憶まで捨ててしまわないでほしい。

 自分の経験は自分だけのもの。あなたにとっては辛い経験や体験や記憶でも、いつか誰かの為になる日が来ると思う。
 その時のためにも、上手に忘れてほしいと思う。

 上手に思い出せるように。  







98.6.8
おやすみ

 ネタはあるんですが、風邪引いているので寝ます。
 みなさん、おやすみ。
 


 インターフェイスとは構造であり見栄えではない






98.6.7
はじめて

 今日は楽しかったなぁ。
 ひさしぶりに友達にあって、楽しく競馬が見れたし。あと、障害コースに入って競馬も見れたしね。うれしかったなぁ。
 色々と足りないところのある俺だけど、ストレスも多少軽くなった。そしてうまく言葉にできないけれど、明日からも暮らしていく勇気みたいなものができたぜ。
 いやぁ、サンクスフレンズ。
 今度は宝塚記念で。





 話は変わるが小学校一年生のことだったと思う。
 夜、急に泣き出したことがあるんだ。で、なんで泣き出したのかというと、

 「死んだらどうしよう。」

 と思ったから。
 たぶん私が見た、一番最初の不安夢だと思う。

 あんまり泣き声が大きかったので、夜な夜な両親が起きてきた。
 「何を泣いているの?」っていうので、子供の僕が「死んだらどうしよう。死にたくない。」といった。
 すると母親がこういった。

 「あんたはまだまだ死なないんだから。心配しなくても大丈夫。」

 その当時は「とんでもない」とおもったような気がする。理屈では納得がいかなかった。が、ひととおり泣ききってしまったことや、両親が来てくれた安心感。なにより疲れてしまったのだろう。いつの間にか寝入ってしまい、気がつくといつもの朝だった。

 小学生の僕はいやなこともうれしいこともあったのだろうが、総じてそれらに満足していたのだと思う。父親、母親、じいちゃん、ばあちゃん、ひいばあちゃん、弟。かれらとこうしていつまでも暮らしていきたいと心のどこかで思っていたのだろう。それ以上に、暮らしていけると安心していたのだろう。
 なんにも知らない小さな子供の小さな世界の中では。

 そこに突然、姿のしれない形のない驚異である「死」が飛び込んできた。いつか終わってしまう。それは周りだけでなく僕自身も・・・。
 小さな私のなかで完成されていた小さな小さな世界を飲み込んでしまうほど、大きくてだれも止めることのない死。
 本能的にだろうか?それを急に意識してしまって、子供ながら真剣に考え、泣き出してしまった・・・と思う。多分。

 それから時がダイブたって今、ひいばあちゃんは死んで、じいちゃんも死んだ。あのとき永遠に続いてほしいと思った世界は簡単になくなってしまった。でも、今の世界にも満足している。
 家族は減って感じも変わったが、この世界もできればいつまでも続いてほしいと思う。
 ただ、それは無理な話だから、せめて少しでも長く続いてほしいとっている。
 これは夢と言うより希望かな・・・。

 思えば、子供のころに僕がいつまでも続いてほしいと思った世界では、僕も他人も永遠に年をとらないまま世界が続いていた気がする。

 子供の頃は本当に夢を見ていたなぁ、と思う。  



 http://www.cosmos.ne.jp/miyahira/index@hi-fi.html
 「人間疲れてくるとタガが外れてタチの悪いことを言い出す」






98.6.5
乗ってく?歩いてく?

 僕は毎朝電車で会社へ通うんだけれども、そのとある風景で改めて思った事がある。
 日本橋の駅で降りて乗り換えをしようと階段に向かったんだけど、その風景。

 エスカレーターに、人、人、人、人。
 階段に、人。

 はっきり人数はエスカレーターに偏っていたんだよね。

 階段なんてだかだか50段ぐらいだと思う。そんなの、ふつうの健常者なら簡単にあがれるよね。でも、そんなかんたんな事でもほとんどの人がしないんだよね。階段を登ること。そしてそういう選択をすること。

 結局、人間は楽なほう、楽な方に行くのかなぁ、と。

 理想としてね、茨の人生を苦痛に耐え、困難を乗り越え乗り越え人生の坂道を上っていく、ってのは誰でも一度は思うと思うんだよね。
 でも、その困難を選択する人間ってのは、前述した階段の比率から言うとかなりまれな気がするね。

 つまり、「困難を選択できる才能」が必要だと思うんだよね。


 ところで、このページをごらんになっている人ってどれくらいいるんでしょうか。たぶん大崎がらみか、hyperの人だと思うんだけれど・・・。
 もしよろしかったらメールでも下さい。いったいどんな気分でこのページをごらんになっているのか、ちょっと気になっているんで。
 基本的にリンクノットフリー、非公開のページなんでほとんど見ている人いないと思うんだけど・・・。

 あ、hyperの人で見てくれている人いたら、うれしいなぁ。  







98.6.3
life

 人生はいろんな風にとれるんだろうけど、簡単に言って

「生の足し算」
「死からの引き算」

 という風にいえると思う。
 どちらを意識したらいいのか、でなくどちらも意識しながら生きていくのが都合が良くて、逃げ道があって良いような気がするね。
 うまくこういう考え方を転がしていくことができるだろうか?僕は。

 ちなみに、人生に意味なんてないと思う。
 でも、意味なんて感じるの、人間だけだよ、きっと。
 もっといえば、だから人間は自分の人生に意味を持とうとするし、個人個人それぞれのものだと思う。人生の意味なんて。

 まず、自分として叶えたいこと。
 できれば、それを自分以外の人とも楽しめればうれしい。

 そう考えると、逆説的には、
「人間は他人と人生の意味を共有できる可能性がある。」
 ということになる。

 だから、わざわざ一人になってしまうことに、僕は寂しさも感じる。
 僅かではあるけれど、なんで可能性を自分から捨ててしまうのか、と。

 まあ、色々な葛藤があって、焦りがあって、それで人を避けずんだりおとしめたりして、人を傷つけ、自分の心を苦しめることもあるんだろう。
 そういう汚さともずーっとつきあわなければならないんだろう。人生は。

 そういう毎日の中。
 僕は自分を、自分の心を、整え続けることができるのだろうか。
 



 http://www.asahi-net.or.jp/~kx7o-kbys/Translation/kirch.net/unix-nt.j.html
 議論するのではない.事実は,議論の対象にはならないのだから.