98.7.31
煙草屋
通勤途中にあった煙草屋が7月を持って閉店した。
私はタバコは吸わない。特に不便はないのだが、それでもあの小窓が閉めらてしまえば、なんとなく寂しいものだ。
煙草屋がはやりはじめたのはいつ頃からだったのだろうか?私はタバコの歴史にはうといのだが、昭和の発展と共に煙草屋も増えていった気がする。戦後の経済成長に伴って個人経営もブームになっていたのだろう。そのひとつが煙草屋だった。そう思っている。
タバコブームはだんだんと火が消えていっているのは事実で、JTもこれ以上のタバコの発展は望んでいないらしい。販売元からしてこうなのだから、個人の煙草屋も大変だったろう。
それよりもコンビニの影響の方が大きかったか。個人で出来るはずのない24時間営業で、品揃えに隙がない。もはや個人の片手間仕事は、他店舗には太刀打ち出来なくなってしまったのだろう。
個人が踏ん張りきれない時代なのだろうか。そう思うととても寂しい。
そういう訳で、通勤途中にあった煙草屋は閉店していった、に違いない。
私の小さい頃、父親に煙草屋まで連れていってもらうのが、1つの楽しみだった。車に乗せてもらって、お出かけする。たったこれだけのことだが、子供にとってはそんな事が楽しみなのであった。
そんな子供の理屈に関係なく、また父も好んで煙草屋を利用していた。吸っているタバコがマイナーだったから、自ずと店が限られたのかもしれない。奥から足を引きずって小窓に現れるおばあさんとの一言。それがが楽しみだったのかもしれない。
あるいは、大人の嗜好品であったタバコは、やはり煙草屋で手に入れてこそ粋であったのかもしれない。
父親に聞けば真相もわかろうものだが、まあそれは聞かない方が楽しみになる。
とにかくそんなことが昔の私にはあって、そうやって手に入れたタバコを父が吸う姿は子供心には嫌いではなかった。
話は今に戻る。
通勤途中の煙草屋にはもう誰もいない。
差し込んでいた明かりも、行き所なく跳ね返っている。
響いていた雨音も、誰に聞かせる訳でなく続いている。
そう考えれば、寂しさは隠すことはできない。
変わらないだろうと思った風景が変わることに、郷愁は禁じ得ない。
しかし、子供の頃に出かけた煙草屋はもうとっくになくなっている。
私もすっかりそれが当たり前になってしまったし、おそらく周辺の子供達には煙草屋など無い風景がそのままふるさとになっていくのだろう。
諸行無常、ではないが。
物事は代わり続ける宿命であり、それに触れた時間を人々は勝手に切り取って思い出にしているのではないだろうか。
たまたま私が切り取った時間は、その場所が煙草屋だったのだ。偶然にも。
98.7.28
大雑把な視力
これは仕事を経験して一年経つか経たないかの頃に感じたことなのだが。
「もっとこうしたほうがいい」「ああしたほうがいい」という理想はいくらでもある。けれど、それを自分ができるのかというと、できない。
思い描いていることを実現しようと真剣になると、ギャップという大きな川の存在に気がつく。
私の今までの大雑把な視力では、それが見えていなかった。仕事場にネットワークを組むならFreeBSDなりLinuxをOSにした方がいいと思う。でもそれは理屈として、あるいは知識としてしか知らないことだ。分かっていてもその技術がないから、私にはネットワークが組めない。素人が専門家ぶっているだけなのだろう。
コストの面でこうしたフリーのOSを使うことには意義がある。また、NTに比べれば落ちにくい。ただし、ユーザーインターフェイスは複雑だし、細かいメンテナンスに専門知識が必要だ。
こういうデメリットとメリットをきっちり計れるだけの技術が私にはない。
だから、知識を(しかも断片的にしか)確認することしかできない。
この問題に関して、私は現実的ではないのだ。たまたまネットワークについて思うことがあったのでそれを例にした。けれど、こうしたギャップは残念ながら腐るほどある。その数を数えれば漠然としてしまう。
漠然として、あきらめるしかないのだろうか。それもまた大雑把な視力なのだと思う。
大きなギャップだから諦める。確かにギャップは大きいが、それらは小さなギャップの積み重ねなのだ。そこに目がいく自分でありたいと最近常々思う。人間は一気に変化できない。
だからこそ一気の変化をなんとかして成し遂げたいと思う。あぁ、大雑把。
できないからこそ、小さな変化を積み上げていく繊細な視力が欲しい。昔やっていた何かのアニメの主人公が「よかったさがし」なる青臭い物をやっていた記憶がある。
「よかったさがし」ならぬ「かわったさがし」が、望むべく自分になるためには必要なのだと思う。
繊細な感情な人ほど、不器用に自分を傷つける。
98.7.23
戦争賛美
サッカーワールドカップ中によく聞いたのが「結局日本は戦争がないから勝てない」みたいな意見。確かに内紛のあったクロアチアやアルゼンチンが好成績を収めた。ブラジルやジャマイカなんかも貧富の差が激しい。だから、イメージとして近年戦争経験があった国は、何か闘争心に優れたように見える。でも、僕が声を大にして言いたいのは「戦争していてもサッカー弱い国の方がずっと多い」ってこと。勝てないのを全て戦争のせいにするのは間違いだと思う。
あるいは近年の経済停滞が、戦争を、軍需を待望しているともいう。けれどこれだってどうだろうか。
確かに戦後の日本は大国になった。そしてその陰で多くの戦争技術者、軍事技術者の手腕があったことは認める。さらにその頃にきちんと意識統一を練習させられた市民が、戦後良質な労働者になった事も想像がつく。
でもこの戦後復興はアメリカのお膳立てがあったからできた。自力のみでここまできた訳ではない。そして日本人は志が高かった。地域というものがあって、善意とか良心となどの見えない物で自分の行動を律することができた。そういう教育を理屈抜きでできたからこそ、集団としての能力を高く持ち、エネルギーを集中して使うことができたのだと思う。
結局、戦争が国を変えたのではなく、真の意味で戦争に負けなかった人々が、苦況に負けなかったからここまで来たのだ。戦争が景気をよくしてくれる訳ではない。
タイムマシンに乗ってその時代に放り込まれたら、僕を含めた現代人がやっていくのは相当困難だと思う。我慢の日々だ。日本には明治維新という無血革命があった。日本は戦争をせず国を根本から変えたことのある、まれな体験を持つ国なのだ。
そういった良積を見過ごし、戦争を待望する人のいる現代。
なんて想像力の乏しいことだろうか、と思う。負けたときのことや、隣人が殺されていく様を想像してみたらいいんだ。
僕は怖くって、とてもじゃないけど戦争を賛美できない。
98.7.22
やい、jobs!、newtonのディスコン(開発停止)は百歩譲って許してやるけどな、もうちょっと生産しろよ。おめー、品不足で買えないじゃないか。それからなぁ、データコンバートの問題を解決して、絶対newtonの開発を再開しろよ。いつかでいいから約束しろってんだ。そもそもおまえなんだ。applestore(アップルのオンライン販売ページ)でお前何買ったよ。newtonじゃねーか。その素晴らしさを再認識したとかいってたくせにぃー。企業として今は手を広げられないのはよく分かったから、経営が波に乗ったらまた、面白い役に立つ楽しい物を開発しろよ!newtonもその内の一つ、one of themだ。
私のページの中に出てくるnewtonってこんな奴です。
こんな感じでアイディアをメモっています。(in train!)
幸せの中にいると見えにくいことがある。不幸の中にいると客観的に物が見える。
(ラジオでkeikoがいってました)
98.7.21
就職難の時代
今日会社で少し話を聞かせてもらったんだけれど、やっぱり就職はどこも厳しいみたいです。私の年齢(23)は、それでもまだ仕事があるというのですが、これが30代になるとかなり厳しいそうです。技能云々を言う前に年齢が壁だそうな。
そういえば、以前ビートたけしのラジオ番組で浅草キッドが「殿を再就職させよう!」みたいな企画をやってた。でえ、たけしがたけしという素性を明かさずに電話で面接を試みるんですが・・・秒殺されてました。それもキャバクラの受付を。
浅草キッドも印刷業界に未経験者として電話応募していましたが、分殺されてました。これは仕方ないかもしれません。印刷の場合、コンピュータの操作を覚えることが大変ですし、それ以上にクリエイティブな技能を育てることが大変です。外国語教育が幼ければ幼いほど始めるのに適しているのと同様なことが印刷にも言えると思います。
ただ、どの世界にも例外はいます。40過ぎで外国語を始めてぺれぺらになれる人がいるように、印刷やデザインを40から覚えることも可能でしょう。でもそれはあくまでまれな例で、万人があてはまるわけではありません。意気込みと技術は正しく比例しないのです。そして、そのような可能性の希薄な物を職業にする必要性はほとんどありませんね。話それましたけれど。確かに失業率は上がる一方。景気が上がらないから人手が余っているのが正直な話。ほんとこうなると職を選ぶなんて贅沢はいわなくても職がない、という状態みたいですね。いつも仕事に文句を言っている私ですが、職があるだけましか・・・。
これを機に二つのタイプが出てくる気がするんですが、一つはとにかく就職を探す人。希望職種でなくてもいいから、とにかく仕事に就きたい人。
もう一つはとにかくやりたいことをやる人。金は苦しいけれどバイトや金を借りたりして何とか生活する人。自分の資質に自分のやりたいように投資する人。
この二種類が出てくる気がします。まどちらがいいのかはわかりませんが。もし私だったら多分前者でしょう。とにかく自立したくて東京で就職した部分もありますので、まずなんでもいいから仕事探すでしょう。就職をしてしまった今、後者にもかなりそそられるのですが、私好きなことでも持続して集中できないタイプ何で、暇しそうで・・・。だったら働こうかなぁとも思う気がします。
そもそも趣味で飯を食おうって考えがないですから、寝食を忘れてそれらに打ち込むことはないと思います。仕事したり趣味があったり他のことがあったり、という状態でそれぞれにある程度しっかり集中する。これが長年の僕のスタイルです。ま、また話がそれましたが、でもそういう中で開き直った新たな才能が出てくる気がしますね。私は私なりにやっていきますが、縛られない金のない中から、才能って出てくる気がします。あてずっぽですが。
ちょうど今日wiredが出ていたんですが、そこに「日本の景気を救うのはインフレだ」という物がありました。びっくりしたのですが一読して納得の部分あり。
今の日本市民は「市場への不信」がありますよね。何買っても損しそう、得がない。だから貯金する、みたいな。でも貯金じゃ経済回らないんですよね。
で、どうするか。銀行への不信が欲しいわけです。金預けてもしょうがない。つかっちまおう!となると金が市場に行くんで景気が回る。金が回る。で、経済が回復する。
かなりはしょりましたが、そんな感じのことでした。
大胆な発想ですが、真実に近いと私は感じております。
98.7.20
言葉について
「討論という手法自体が、手法として限界を持っていることを自覚しなければならない。」あるいは「似たような未来」がやってきた時に、あの時のままじゃ悔しいじゃないですか。
ということをどこかで聞いた気がする。これは
「言葉という手法自体が、手法として限界を持っていることを自覚しなければならない。」
と言い換えることができる。
もっと言うと、「言葉で心の全てを語ることができない」とも。全てを語ることができない「言葉」という手法にすがって、僕はインターネットで物を言っている。これは愚かなことだろうか?
そんなことはないと思う。全てを1と表現しよう。ならば言葉は0.999999999の、限りなく1に近い地平を走っているのだと思う。表現を突き詰めれば突き詰める程、1という新たな単位に近づいていく。でも永遠に1にはならない。交わらない。
もし何も考えずに言葉を使ったなら、0.1かもしれないし0.2かもしれない。全てにはほど遠い、0に近い表現しかできないだろう。何も伝わらないのだ。
それを思えば、言葉という表現があることがありがたい。
それを使って、少しでも多く人に伝えたいと思う。自分でも自分の全ては分からない。だから全てが伝わらなくてもかまわない。
全てを伝えられないのだ、僕は。伝えたいという欲望は、二つのことを僕に求める。
一つは少しでも言葉をうまく使えるようになること。
もう一つは「もっと別の手法を知りたい」ということだ。音楽を知りたい。絵を知りたい。しゃべり方を知りたい。写真を知りたい。etc。とにかく色々な物を知りたいと思う。好きの横好きだとは思うのだが、一つの手法がもつ限界を、別の手法で乗り越えたいと思うのだ。言葉で足りないことを、他の手法で伝えたい。自分の中の雑多な物を、何とかしてまとめたいと思うのだ。
「全てを伝えられないのだ、僕は」と僕はいったけれども、少しでも多くの事を伝えたいと手法を経ていけば、いつかは自分の「全て」が見つかる気もする。見つかったからどうだってことはないのだが、まあ続けていけば、高めていけばそういう可能性もあるだろう。何もしないよりは。
なにより、大事な人に伝えたいじゃないですか。誤解のないように伝えたいじゃないですか。大事な時に思いが伝わらなかったら後悔するじゃないですか。時間も出会いも別れもタイミングも、二度とは戻ってこないじゃないですか。
別に女の子相手に限らず(いやーこの方面、もっと頑張らないと、俺(笑))会社の人とか、友人とか親とか、まあ全ての人にね、誤解があったりするのはね、悔しいですよ。ホント。そもそも人間って、ひとりぼっちの寂しいものですしね。
だから言葉とか絵とか音楽とかって手法は生まれたんだと思いますよ。
それぞれの寂しさを埋めるためにね。あるいはぞれぞれの寂しさを確認するためにね。
Noone's wastin' time
98.7.19
NewText No.1
天気がいいので散歩に行ったのですが、みんな幸せそうで何よりです。
コンビニで今週は早めに出ていたジャンプとかヤンマガとかを立ち読みしました。
女子高生が声出して歌ってました。びっくりしました。
さらに見知らぬ所に足を運んで、だらだらと考えたりしながら。
いつの間にかでっかい道に出てしまって、つまらないから戻ったりしながら。
些細なことを思い出したり、大事なことを覚えたりしながら。砂時計は落ちていくわけです。
太陽は照っているわけです。ふと気づくのは時間は戻らないということ。
川沿いを歩きながら、わざと足を一歩戻したりしても。
空の下のカラスはいなくなっていたし。
遠くの子供の声は消えてしまっていたし。
太陽はいつもと同じに照っているわけです。人生80年としても、んーすでに1/4を越えてしまった訳なのかー。
一人悦に入ってしまった太陽の下。木陰の裾の方。
でも明日死んじゃったら1/4もクソもないなぁ、1じゃん。そう思って。
結局いつ人生が終わろうとも明日は平等なのかと思ったり。
今どの位の時期かなんて、結局確かめ算でしかないのですね。いつもの帰り道を歩いています。
昨日の朝方、4時頃に起きてしまったことを思い出して。
もう空が明るくなってきてびっくりして。
ラジオがつけっぱなしになっていて。
そこから華原朋美が流れてきて、あまりに下手でむかついてラジオ消して。
白んでいく空を見てたらまた寝てしまって。そんなこんなを晴れた空の下思い出している内に。
下宿が近くになってきたので。
様々な思いをとりあえず、自分の引き出しにしまって。
閉めっぱなしの部屋が蒸しているだろう事を想像して。
とりあえず小さく覚悟してドアを開けて。で、ムワッと・・・。
98.7.18
5円のシュークリーム
あー、書こう書こうと思った選挙のことについて書いておきますが。
結局、政治家も投票者も勉強不足な気がしました。私もとりあえず投票しましたが、具体的な政策もよく分からずに印象で入れてきました。具体的な政策が分からないのは私の勉強不足のせいでもあるし、出馬者の広報下手ともいえますね。
あと、政権がひとつ誕生する度に、ある程度具体的な目標をきちんと明言して欲しいですね。政権が変わる度にすべてを期待してしまう僕らも僕らなんですが、代替わりする度に「全てを」解決して欲しいと期待してしまう。
そうでなくて例えば今度の政権だったら「2年後には失業率を1パーセント台にする。」とか、「一人当たりの平均減税いくらを行い、景気を何パーセント上げる。それをいつまでに実行する」など、ま、公約ですね。これをきっちり数字で確認できるようにしてほしい。そしてその初心をまずはきちんと叶えて欲しい。そう思います。
できれば政権続行。できなければ政権交代。それでいいんじゃないでしょうか。
駄目な原因というのは無数にあるようですが、それでも数に限りはあります。一つずつ解決していきましょう。いつかなくなります。捕らえきれるようになります。
と、思うのですが・・・。難しいことはよくわかんないんですが。(byこん平)小さい頃、お金持ってました?子供の頃ってお金がなかったから、何を買うかってすごく悩みました。(今もお金がありませんが、あの頃はご飯は必ずあった訳です。今は、そうもいかない。はは。)
10円のガム買うにしても、普通のガムにするのか、当たり付きのガムにするのかっていったら、間違いなくあたりつきでしたね。あのガムってうまかないんだけど、楽しかった。中にはパチンコみたいな物もあって、ポッチを押すとゴロゴロ転がってくるガムが見えるわけです。うーーん。チープだ。
で、私たちにとっては買い物する場所というのは駄菓子屋であり、駄菓子屋で行うことと言えば、「如何にして100円を使い切るか」と言うことでした。それこそ100円は駄菓子屋での命題だったのです。ある日駄菓子屋にいったらですね、プラスチックの透明な容器に赤い蓋。その中にプチシューがゴロゴロと収まっていました。で、「一つ下さい」といって10円を差し出したら、10円でした・・・。嘘(笑)。5円おつりが帰ってきました。シュークリームは5円だったのです。
これはショックでした。何故かって?駄菓子屋の最低単位ってのは10円!10円なんですよ!
いいですか。もし、まああり得ないけれど、1円の物を買ったとします。1円さし出しますよね。で50銭返ってきたらびっくりするでしょう!?
この感覚です。覚えておいて下さい。この感覚です。(覚えねーよってのはナシ)味も大変おいしく、小学生だった私は大変驚きました。で、駄菓子屋のおばあちゃんと「これを沢山食べれば安くご飯がすむねぇ」などと話した気がします。(子供だからカロリーとかビタミンとか知らないのだ。すげぇな。無知の知って)
家についてからも、うれしくってそのことを母親に話した気がします。ちなみに今でもその駄菓子屋さんはありまして、滑りのわるかった引き戸がサッシに変わったりしながら、今日まで続いています。中に入れば品揃えも変わりましたが、あの頃のクーラーに、スプライトとかチェリオとかが冷えていまして、未だに小学生が習字の半紙を買ったりしているみたいです。
大学の時に一度店に顔を出しましたが、それ以来いっていません。周りの駄菓子屋が姿を消していく中で(そのかわりにコンビニにそのようなお菓子が並んできていますね。これも時代の流れか)あの駄菓子屋はいつまでも続いていくような・・・そんな安心があるので、なかなか足を運べません。
失ってから気がつくのでは遅いですからね。今度いこっと。ところで、アジサイの花も大分枯れてきましたね。
98.7.14
雑感
自分の内面的なことを書いてしまうと、なかなか次が書けなくなってしまいます。こう、段々と筆が重くなっていくと言ったらいいのでしょうか。シリアスになってしまうんですね。
で、ちょっと軽く書いてみます。リハビリです。前回「駅」を書いて、その前には「明日は七夕」というタイトルでちょこっと書き物しました。私はこの二つは気に入っています。自分で気に入っているというとおナルな感じですが、納得できていると言うことです。
伝えたい事をとりあえずは書けたと思いますし、言葉の選定や順序は、自分の中では納得できています。ただ、あとで読み直せばあらが出てくることは間違いないのですが・・・。どちらも書き始めればすっと書き終えることができました。そこら辺は文章を書くときの良いリズムの典型です。でも「七夕」については、最初は昔話をするつもりなどみじんもなかったのですが(だって、選挙のこと書こうと思ってたもん)。気がつけばあんなに赤裸々です。あーはずかし。
ま、でも自分でも忘れてた事を思い出せたので、それがよかったなぁ、と思います。
あと、「心の地図」ってせりふは臭いんでちょっとためらった部分もあったのですが、他にぴったりくる言葉がなかったし、思いついてしまったので入れることにしました。「駅」は前々から「思いに色が付いていたら面白いだろうな」というアイディアがありまして、それを今回表現しました。よく飛行機とかで「ガタン」と揺れたら、みんな一斉に冷や汗かいたりするじゃないですか。あの時ってみんな同じこと思って、そういう空気がながれますよね。
「あの時、みんなの思いの吹き出しはそろって黒なんだろうなぁ」というのがそもそものきっかけです。今回駅でそれを使いました。ただ、それが主題にならなかったのが私の中の誤算でして、でもそれなりに自然に流れていったので、ま、いいや、と思っています。
ちなみに、あれは半分フィクション、半分現実です。思い出しながら書いているので、いくつかの違った時間の現実が同じ時間軸に凝縮されていることをご了承下さい。ただ、最後のまとめの部分はあそこにもっていくのに少し悩みました。「地下鉄が闇を通る」ってうところで話の筋がちょっとそれ始めていたので、その部分を消そうか、それともどうやってうまくもって返そうか考えました。で「別の脳味噌で」という文章でつなげました。
ちょっと苦しいかなとも思ったけれど、人間同時に二つの事ぐらいは考えられるんで、まいいや、と思ってそうしました。最後の一文にうまくつながってくれたでしょうか?あと、この回では文体を変えたのですが、最後はいつもと同じになってしまったような気がします。いわゆる「第三者として書く」ということを一応考えました。
で、実はこの日も最初は選挙のこと書こうと思ってました(笑)。
今、newtonにいくつかネタのストックがあるのですが、残念ながら文章になりません。あくまでアイディアですね。でも、そのアイディアも頭の中にまだいくつか眠っています。こっちの方が文章になりやすいかも。
ま、競馬も負けましたし、ちょっと面白い話もいただいているんで、もうちょっと真剣に文章をかこうかなぁ、と思っているのですが・・・。文章の書き方も大事ですが、もうちょっと深い視点が自分に欲しいところです(生活の中でもね)。
ま、こんな感じです。
大したこと書いていませんが、別に大したこと書くページでもないし、他から見れば全然普通のことかもしれないんで、まいいか、と思っています。では。寝ます。
98.7.10
駅(地下鉄を待ちながら)
階段を下りたらちょうど電車が行ってしまった。
せっかく会社を早くにでて、乗り継ぎを急いでここまで来たのに・・・。すごくもったいない気持ちだ。損をした。
次の電車は、そうだな、もう5分もしないでくるだろう。田舎のあのローカル線に比べたら、すっと早いじゃないか。でも、それが待っていられなくなった。
東京に来て6年目。社会に出て2年目。良くも悪くもこの暮らしに慣れたんだな。時間を持て余したのでホームを行ったり来たりしてみる。駅の売場にはスポーツ新聞がラッパみたいになって積み重なっている。「聖子宅に泥棒」。ふーん。どうでも良いことじゃないか。でもみんな首を突っ込みたくなる。退屈な生活を、どこかで埋め合わせしたくなるのだ。
「聖子宅に泥棒」。これが今日のディナー。次の電車を待つ人。どれくらいるんだろうか。100?200?きちんと数えてないけれど、とにかく沢山の人が電車を待っている。そのすべての人が見ず知らずの他人。当たり前だが、何となくすごい。
みんなきちんと家に帰るのだろうか?帰れるのだろうか?目の前には柱にもたれかかった女の人がいる。でもそんなに美人じゃない。俺も別に美男子じゃないから、そう思ってもいいだろ?
ちょっと厚めの化粧で何かしら考えている。俺はそれを見て考えている。
何考えているんだろうって。僕とあなたでは、あるいは他の人たちとでは、明らかに外見も内面も違う。でも多分、お互い何かを考えていることは同じだ。100?200?それくらいの人がいるこの駅で、同じ数だけの思いも存在している。
「目に見える物だけがすべてじゃない。」と言う言葉を聞いたのは、放射能のニュースの時だったか何だったか。一見のどかな風景が、実は立入禁止の危険区域だった。目に見えないけれど、確かにそこには沢山の放射能があったということだ。
そこにいれば、僕らはその影響をうけて死んでしまう。この駅には放射能はないが、そのかわりに思いがある。ホームからこぼれ落ちそうな位にみんないろいろ考えているのだろう。もしかしたらひかれてしまった思いなんかもあるのかもしれない。
あなたの思いが、私の思いに何を与えたり奪ったりして、何かしら影響しているのかもしれない。もし何にでも正しく色をつけるスプレーがあったとしたら、この駅はどれ位の色に染まるんだろうか?あの暗そうな会社員の思いは黒?あの若い女の子の思いはピンク?時間がたつにつれ、きっと生き物のように色を変えるに違いない。誰の思いも。
そしてこの駅はカラフルな風船がいっぱい溜まったように見えるだろう。目の前の厚化粧は何を考えているのだろうか。
俺は最近仕事と自分のバランスが取れなくてちょっと悩んでいる。色は紫ってとこか?私生活は・・・ハッピーもあるけど悩みも多いなぁ、暗いだいだい色かなぁ。でも明日は面倒な仕事があるなぁ、ちょっとつまんないし。うぉ、そう思ったら黒ーーくなってきた。
そう思って目の前の厚化粧を見ていたら、違う方を見てにこっと笑った。それをみたらなぜか気分がすっきりしてしまった。
いいことあったのかなぁ?これから彼氏のとこにでもいくのかなぁ、なんて考えてしまった。別におれが幸せなわけではないんだけれど、何となく心のもやもやがはれてしまったんだからしょうがないじゃないか。理屈じゃない。
理屈じゃなくって、でも確かに彼女の思いが僕に影響している。電車が参りますというアナウンスが、ごうっという音を近づける。プーっという音を立てて電車がホームに入り込んできた。
僕は目の前の厚化粧とお別れをして、別の乗車口から電車に入り込んだ。
入り口のすぐ近くで座席の横の柱にもたれかかる。もう一度プーっと音を立てると、僕の横で扉は閉まっていった。地下鉄は闇の中を次の駅に向かう。見えない闇をライトで照らして、機械の音を立てて先へ進む。暗闇に敷いてあるいつものレールに乗って、いつもと同じく次の駅に向かう。でもその先はいつもと本当に同じなのだろうか?
その答えは地下鉄が喋れるようにでもならないと・・・分かんないだろうなぁ。そんなこととは別に、もう一つの脳味噌でずっと僕は考えていたことがある。そして、もしかすれば地下鉄もこんな風に喋るのではないか、とおもった。疲れていたのでそれ以上は考えなかった。ヘッドホンの音量を少し上げて、しばらくは音楽と電車の揺れに身を任せることにした。
「目に見える物だけがすべてじゃない。」
http://www.alles.or.jp/~nabechan/appletree/98-7-1.html
必要とされることがあったよと 舞い上がって空に感謝したよ
98.7.8
夢
夢を捨てるのが大人なら、それを拾うのが子供ですかね?
10時過ぎにジャガイモ剥いたことありますか?
98.7.6
明日は七夕
取り立てて生活が変わるわけではありませんが、明日は七夕です。
私の実家は農家でして、近くで笹をとってきてはみんなで願い事をかきました。子供のころ、結構喜んでそれをやった記憶があります。
今はこっぱずかしくてそんな事する気にはなれません。やったとしても「金のなる木は美しい」とか「今日のはずれより明日の当たり」とか書きそうで自分が怖いです。つくづく、よごれになりました。子供の頃に喜んでやった記憶があるのに、そのころ何をお願いしたのか全く記憶がありません。それだけに今もう一度あのころの短冊を読み直したい気がします。自分がどんな思いを馳せていたのか。あのころには戻れないだけに、気になるのです。
夕方みんなで折り紙を折っては願い事を書き、それを少し離れた梨畑の入り口に飾ったり、玄関に飾ったりしたことを思い出します。
薄紫色の空に、白い星がうっすらと地平に表れ、陰った日を頼りにわずかなあぜ道を通ったりしました。笹を持つ父とその周りにうきうきとしていた子供は、気がつけば二人とも二十歳を超えるまでになりました。
まだ笹を持つ父に背の届かない年頃で、本当に心からうきうきしてその背中を見ていました。今よりも一昔前です。テレビだって今みたいに馬鹿みたく家に何台もなくて、虫を捕ったり他人の家のファミコンにあこがれたりしながら年を過ごしました。
思い出を美化するつもりはさらさらないのですが、親として半人前ぐらいだっただろう父や母が、子供に知恵をつかって笹に願い事を書くことをし、それよりももっとどうしようもなく小さな子供が嬉しそうに笹に願い事を書いた風景は、なんだかとっても懐かしく感じます。
同時にどうあがいてもその頃には戻れない今の自分が、きちんと胸をはって生きてけているか、自信をもっていられるのか、自分に問うてみて少し戸惑いも憶えます。今の自分を戒めるために、というわけではありませんが、それでもそんな理由も含めて、もう一度あの時の短冊を見てみたいです。
今、多少の迷いが大人になった自分にあったとするなら、僕がどこから来たのか、心底どこに行きたかったのか。心の地図がそこにある気がします。自分がもし親になって子供を持ったときに、自分の親がしたように僕は七夕に願い事を集めることができるでしょうか?子供がいたとして、彼らのために心底それを楽しんで行うことができるでしょうか?考えすぎてしまった大人の思慮で、そういったことを拒みそうな気がします。彼らの事を考え、そういった事を心から楽しめる父親になりたいと思います。
そして、もしかしたらその時の短冊をそっと手元に残しておくかもしれません。それは今日のような後悔が来たときのためであり、あるいはそこに自分が書いたあの日の願い事が書いてあるからかもしれません。
ともあれ、明日は七夕です。
彦星、織り姫はもとより、子供達に良い一日であるように心から祈ります。
「えらいもんだ。大したもんだ。ああいう人が立派だね。カネを稼ぐって事だけじゃなく働いてる。」
週間ファンファーレ「血と知と地」より。
98.7.5
音楽紹介
前回、音楽のことを少し書いたんで、最近私が聴いたアルバムを紹介します(ネタがないわけではない)。TOKYO NO. ONE SOUL SET/夜明け前
今まで彼らを聞いたことがなかったので、買ってみました。この「夜明け前」がよかったので。ちなみにこのCDはマキシシングルです。
彼らはこの曲を境にライムが少なくなりメロが多くなったと言われているようですが、メロもとりたてて激しいメロディラインというわけではなく、あくまでラップ的な流れるメロディ。そんなメロディにのせている詞は、リフレインされる度に印象的です。
すごくおおざっぱな言い方をすると、スチャダラの「サマージャム'95」と小沢健二の「今夜はブギーバック」を足して二で割った感じ。the pillows/LITTLE BUSTERS
大学時代から何かと気になっていたpillowsのサードアルバム(だと思う)。一曲目からロック乗りのメロが最高。ミュージックマガジンに「壊れたミスチルかスピッツのよう」とかいてあったけど言い得て妙。ロックが忘れてしまったパワーがこのCDにはあります。自分に自信を持てないティーンエイジに聞いてほしいし、その頃を忘れてしまった大人達にも聞いてほしい曲。
みなさん、もっと声を出して暴れましょう。という感じ。pre-school/peacepact
プリスクールと読む。日本人バンドながらほとんど英語。テクはないがパンキッシュな感じがまあまあ。greendayとか好きなら、そこそこいけるんではないでしょうか。英語でメロができたのなら、英語で歌いましょうと開きなおった感がよし。ただ、そこからさらにがほしい気も。ecoちゃん最高。SUPER BUTTER DOG/FREEWAY
ラジオで聞いて気になっていたスーパーバタードッグのデビューアルバム。全体的に外へ外へのグルーブ感が若い。とはいえ演奏もよく、ノンジャンルな響きが新しいバンドだってことを感じさせる。詞の内容もよいです。ちょとと箱庭的な印象もあるのだが・・・。SUPER BUTTER DOG/333号室
と思っていたら心配が当たってしまったセカンドアルバム。グルーブは深く、演奏は旨くなったのだが、歌詞がシャイでナイーブになり、その分抽象的で印象的な感じになった。問題は音の方向性。まとまりは前回より大分良いのですが、ちいちゃくまとまってしまった気が・・・。
デビューが外へ、セカンドが内へ。まあ、よくあるパターンかもしれません。サードでこのバネを生かしてどこまで飛ぶのか。そこが期待。
とはいってもですね、そこら辺の変な音よりは全然良いですよ。これ。grapevine/退屈の花
grapevine待望のデビューアルバム。やる気があるんだかないんだかわからない田中のボーカルに、彼の書いた深くて繊細な詞がうまく乗っている。音もよい。ただ、私の音楽的バックグラウンドがあまりに狭いため、この音をなんと表現して良いのかわかりません。が、このアルバムは良いと思います。
日本人の日本語のロックが、心に響いてくるのはうれしいものです。と、今回はここまでにしておきます。次回はありますが、日にちは未定です。
98.7.4
夜の散歩にて
最近仕事がだいぶ早く上がるようになりました。といっても残業で次の日に帰った日も一日ありましたが・・・。
早く家に帰るにしても遅く帰るにしても,最近は夜に外にでることが結構あります。
おしゃれにいれば、「夜の散歩」です。
俺的にいうと、「近所のコンビニまで」です。
夜になって昼よりも断然に数を増しているものがあります。何だかわかりますか?
それは犬。夜に犬の散歩をする人って多いですね。結構新鮮な驚きです。
私犬好きなんですけれども、別に犬に服着せようとか,だっこして町を歩こうとか思ったことはありません。ああいうことする人。何でなんでしょうかね?そういう人、夜にも結構いますね。
ま、そういう人がなにしようが勝手なんですが、犬にしてみたらどうなんですかね?人間でもそうですが、かわいがることと自分勝手に溺愛することは全く違うと思うんです。
やりたいようにさせてもらっている、かわいがられている犬。
自分勝手を着せられている,溺愛されてる犬。
もし自分が犬だったらどっちがいいでしょうか?
服を着せるような飼い主はどっちを選ぶんでしょうか?
犬に服を着せるような人がね、もし「やりたいようにさせてもらっている、かわいがられている犬」を選ぶとしたらね、ちょっとどうかと思いますね。自分の足りないことや,自分の好き勝手を犬に押しつけるような自分勝手さをね、無視するのはなしにしてほしいと思いますよね。
ま、どうでもいいことですが。
もしかしたら、服を着ることが好きな犬もいるのかもしれないし。(ここら辺、犬になってみないとなんとも言えない)
ところで、これと同じくらいびっくりした犬の散歩があるのですが、それは「携帯で話しながら散歩している飼い主」ですか?
なに犬に向かって喋ってるんだろう?と思ったら携帯で話してました。あのときの犬の気分ってのはどうなんですかね?犬の散歩にまで携帯もっていくってのは,どうですか、お客さん?
ま、とはいえ夜の散歩は結構楽しいです。昼ってのは仕事の時間です。どうしても縛られた自分しか出てこないって気がします。夜になると本当にやりたいことをやっている姿が見られるので、それが結構印象深いです。
その人の夜の時間の使い方をみていると、その人がなんとなく分かったような気になれます。
って、俺は夜に散歩していますが、これはどうか・・・。
98.7.3
かぞえうた
物の数え方で、難しいものってありますよね。
例えばイカ。あれって一匹二匹って数えないんですよね。一パイ二ハイって数えます。
ウサギも数え方が特殊なんですよね。一羽、二羽って数えるそうです。
年齢や性別で呼び方が変わるものもありますね。出世魚なんてのがそうですね。
あと、フランスでは馬の呼び方が年齢、性別で異なるそうです。一歳の牡馬はナントカ。一歳の牝馬はナンチャラ。そう言った感じでずーっとあるそうです。律儀な国ですね。
結局、種類、性別、年齢の要素が、物の数え方や呼び方を決めているみたいですね。国々の文化によって異なるところがおもしろいですね。
ところで、日本には性別で数え方が変わる動物っていますかね?
・・・
あ、一つだけいるかも。
人間の男は、一人って数えるんですかね。それとも、一匹って数えるんですかね?