98.8.31
some money
お金をつかいたくないなぁ、と思いながらお金を小出しにしている。
もうちょっと、スマートでダイナミックにならないかなぁ、と悩む日々。子供らは夏休みも終わり。
またいつもが始まる。
特別な夏は、誰にでもある。
いつまでも昔のバンドを大事にしているばかりでも駄目ですよね。
ポリスなんかもとっくの昔に解散してしまったわけだし。
(中井美穂がラジオで言ってました。)
98.8.30
say hello to iMac
秋葉原に行って来ました。当然、今日の午後3時に販売が開始されるiMacを見に。最初にイケショップというマック専門店に行って来ました。私がPowerbook2400を購入した店です。ちなみに2400はクリックパッドの異常な堅さ以外は納得の製品です。買ってよかった。(とはいってもG3全盛のご時世では遅い部類のマシンなのだが)
イケショップを遠目にみて、思わずにんまり。既に人だかりができています。「おっ。こりゃぁiMacを一目見たいという人だかりだな。」と思っていたのですが、近づいてびっくり。予約の人だかりでした。店の前に常に5人ぐらい入れ替わり立ち替わりです。
店の入り口は開けっ放し。目の間にはiMacが既に見えます。おお。ファーストインプレッションは「思ったよりでかい」です。コンパクトマックを見慣れている方には大分大きく見えたと思います。
次の印象は「つるつるしている」です。webなんかのイメージだと正面から見たときはモニタが白っぽく見えますが、少なくとも蛍光灯の下では透明でつるつるして見えます。ちょっと格好悪いかもと思った。
bondaiblueと言われるグリーンともブルーともつかない、信号機の「青」に近い部分は、webのイメージそのままです。とっても新鮮なデザインなのですが、見慣れてしまうと当たり前に見えるから不思議ですね。ここら辺はデザインになじんでしまっているので逆に新鮮みに欠けました。
マウスについてですが、これはなれれば大変よろしいかと思います。最初は小ささにびっくりしてしまいましたが、すぐになれました。小さなマウスなのですが、重さが結構ありまして、それがいい感じです。プレイステーションのコントローラーを思い出して下さい。あれが出た当初、「大きい、思い」と言われてしましたが、実際に使ってみると使いやすかったですよね。私にとって、あれと同じ感触を感じました。
次にキーボード。だせぇ。キーボードのバランスは私から見ると最悪です。2400のキーは普通のマックよりも一回り小さいのですが、そのせいもあるのでしょうか。
それにしてもリターンキーは不器用にでかいし、黒のスケルトンのキーボードがなんとなーくぼやっとしている。キーの影が見えないせいで変にでかく見えます。日本ではキーボードは色々と規制があるみたいで、そこら辺が影響しているのかもしれません。
キーボードについて酷評していますが、ここでいい点もひとつ。「help」キーの存在です。これは多分helpのショートカットを割り当てたのだと思いますが、楽で、場にあったhelpが出てくるので、初心者にはいいのではないでしょうか。ボディは美しい形をしているとおもいますが、できあがったばかりのパンみたいに、膨らんでいるんですよね。あれが好きか嫌いか、これは人の好みだと思います。個人的には少し嫌いです。でも横からのラインはさすがです。上からもいいです。気になるのは正面だけ。でも、店の蛍光灯の下(かなり明るい)でなくて、家庭の蛍光灯、あるいは自然光の下であったらなら、多分つるつる感が消えるので好きになるのではないでしょうか。
ボディの右側には例のIOドアって言うんですか、あれがあります。手であけることはしなかったのですが、かなりいいです。iMacはモニターの全面から背面に向かってとがっています。ですので、横のケーブル類は正面からはきわめて見えにくいのです。結果としてすっきりしたiMacのフォルムを殺すことなく、従来の「背面にケーブルがあるという煩わしさ」を解消しています。これは生産的なデザインとして素晴らしい事です。これだけで拡張がおっくうでなくなるのですから。動作についても触れてみます。さすがG3です。finderの動作もきびきびしていて速いです。初心者には十分すぎる早さです。ここではペンティアムとの比較を避けますが、一線で活躍しているチップと同じ物が使われているのですから、初心者が使って不足を感じるはずがありません。ハードですからいつかは古くなります。ですが、かなり長く使えるCPUには間違いありません。
私がperformer575を購入したときは、同じくらいの値段でもCD-ROMもCPUも一世代前の物でした。そのころは既にPowerPCが世の中に出てた頃でしたが、040のCPUが使われていました。
今私は2400を使っていますが、買い換えの要因はCPUの問題が主でした。ちなみにCD-ROMについてですが、あれはかなりうるさいらしいですねぇ。そういうこともあってかどの店を見てもCDは入っていませんでした。実際にイジェクトしてみましたが、ちょこんとしかイジェクトされません。Powerbook形式って言う奴ですね。あれはまあ慣れでしょう。ですが、どうせならきちんとしたCD-ROMでも良かった気がしますし、そうでなければ拡張モジュールにしてしまった方が良かったと思います。(ただそうするとUSB対応製品が一気に減るだろうが。)
こいつを一体誰が購入するのでしょうか。これが一番気になるところですが、Macユーザー八割、winユーザー一割、新規ユーザー一割って割合かと個人的には思っています。ただ、実際に秋葉原を歩いていて目に付いたのは女の人の購入者が多いということ。デザインが助けになっているんでしょうね。
個人的には、iMacは初心者の方に使って欲しいと思います。バックアップツールがなにもないのが難点なのかもしれませんが、新規ユーザーが一番失うものがなにもないのも事実です。そのうちUSB対応のMOとかも出てくるでしょうから、そういうものでバックアップを取ればいいんじゃないでしょうか。今すぐ必要な物ではないと思います。
あるいは会社のネットワーク端末としてもかなり魅力的なマシンです。こいつは100baseのイーサネットカードを内蔵していますから、端末として使えばバックアップも完璧です。個人的にはこの使い方が一番好ましいかと思います。iMacは部屋の中央に置いてもカッコがつくマシンです。どこに飾ってもいいし、みんなでのぞき込んだり楽しんだりできるマシンです。
昔々、Appleが出したピピンというネットワーク端末がありました。あれはゲームマシンとして華々しく登場して華々しく散っていきましたが(笑)、iMacはあれの焼き直しだと私は思います。
ピピンは個人的にはテレビでインターネットするためのいいマシンだと思います。でもそれでも中途半端だったのです。簡易的なMacOS。ハードディスクのないハード。なによりマックの資産も活かせず、ベンダーが参入しずらい。そういった中途半端さをやめて、とにかく家庭で使えるマックを創ろうとした。それがiMacだと思います。
スペックについてもがたがた言われていますが、がたがた言うのはヘビーユーザーです。ヘビーユーザーはMacを買えばいい。初心者にはiMac程度でいいのです。そこから先が必要なときは、すでに178000円の元を取ったときです。そのとき、iMacを買った初心者ユーザーは、立派なヘビーユーザーになっているはずです。せっかくiMacが出たので色々と考えてみました。
秋葉原を歩いていて、何度かくらっときたのは事実です(笑)「ちゅーしていいよ」とは言いませんが、「勧めていいよ」と言っています。
iMacが。
98.8.22
newton2100J再販!!!
やりました。
newton2100J再販となりました。現在NewtonShopには、予約をキャンセルされた方が沢山います。その方達に商品が手渡り次第、順次予約を再開するとのことです。
やったー!実は現在NewtonPageを制作中でして、そこで「Want Newton」という署名ページを創ろうと計画していました。だってあまりにも物がないから。ですが、これも嬉しい計画倒れに終わりそうです。私としては英語のドキュメントまできっちり創って、意味のある署名をしようと思っていたのですから、本気の本気でした。
ですが、これももう企画だおれです。でもいいぜ!
本当に嬉しい。でもみなさんから見たら狂気の沙汰だと思います。だって188000円ですよ。iMacよりも一万円高い!はっきりいって趣味か道楽の部類です。でもね、でもね、私にとっては実用なんです。
Newtonで出納管理もしているし、住所録もスケジュールも管理している。さらには日々のアイディアだってNewtonの中にある。最近ではちょっとした英語のドキュメントの読解ヘルパーにしようと考えていました。
このページの下書きの8割以上はNewtonの中にあるし、Getsoulのメモ書きも当然あります。とにかくインスピレーションの全てがNewtonの中にあるわけです。私の生活の中では「必要」なツールになってしまったわけです。
これなしでは考えが形にならない!友達とノリで書いた酔っぱらったメモ書きとか、コンピューターが全く苦手なおばさんにかいてもらったイラストとか、子供に渡したら壊されそうになりながらも残っている変な図形とか・・・。そういう過去の生き生きとしたかけらがNewtonの中にはあるんです。
高いけど、ぜひみなさんには触れて欲しいデバイスです。だから俺は自分で買う。そして使ってもらう。だって知ると知らないは天と地の差だから。自分が自信をもって使っている物だから、ぜひ見て欲しいと思っている。
そりゃぁ、このOS、デバイスが性に合わない人もいるかもしれない。でもそれだけで十分だ。こういう感想ですら、触れなければわからないのだから。
実は予約再開の一報を知るついさっきまで、Powerbook2400のハードを増設しようと予算を組んでいたんだ。でもやめた(笑)。DosのパーテションをつくってなんとかLinux入れようと考えていたんだ。でも、後回しにする。
多分間違いなく一般的にはLinuxの勉強なりなんなりのほうが得だと思う。でも、それらはいつでも手にはいるから。Newtonは先がないから(苦笑)。先がない。自分たちで作り出す以外にはね。
でもPowerbookの方もお金があったらやりたいよ。なんとか節約してそっちもやれるように頑張りたい。
でも、今はNewton!!!ディスコン以降、頑張ってきたユーザー、メーカー、開発者の全てにお礼を言いたい。そして、これから始まる全てに微力ながら力を貸すことができれば、そう思っている。
だからこそ、僕はまずより多くの方にさわって欲しい。
だから、欲しい!!!
98.8.17
自分
自分と他人の違いってなんだろうか?
ある人は、自分とは「自分の思い通りになるもの」といっていた。
何も知らない赤ん坊は最初、世の中全てが自分の思い通りになると信じているという説がある。そして成長していくと言うことは、「自分の思い通りにならない物を確認していく」事だという。
面白い話ではある。大人になって十分に自分とそれ以外の区別は付いた。赤ん坊は最初、母親は自分の一部だと信じていると言うが、大人になってそれは違うとわかった。結局自分が抱えられるものは、自分の体一個だけということだ。
自分の思い通りになる物は、結局自分だけなのだ。ところがである。自分でも思いがけない事を言ってしまったことはないだろうか。予想もつかない行動に後悔したり、成功したことはないだろうか。
自分の思い通りでなかった自分。これは誰の過去にも存在すると思う。
それが良い結果、悪い結果を生んだとして、はたしてその時の自分は思い通りになっていただろうか。
答えは「ノー」だ。自分の中には常にもう一人の、自分でない「自分」という人間がいる。彼が何者なのか。時に考えることもあるのだが、なかなか答えは出ない。
ただ、この分からぬもう一人の自分を認めてやると、色々と新しいことに気づく。自分とは「思い通りになる自分」と「思い通りにならない自分」から成り立っている。このとき、「思い通りになる自分」とは「思い通りになるある人物」を自分が理解できているからこそ「思い通りになる自分」と表現できている。そのことに注目して欲しい。自分だから理解できるのではなく、理解できているからその人(=ある人物)を「自分」と呼んでいるのだ。
自分を言い換えてみる。自分は「思い通りになるある人物」と「思い通りにならないある人物」から成り立っていると言える。ここで引っかかってくるのが「思い通りにならないある人物」である。自分にとって「思い通りにならないある人物」とは他人以外の何者でもない。つまり自分は他人を内包している存在なのだ、という事が証明されはしないだろうか。
とっても数学の「証明」的な考え方で、分かりづらい部分も多いと思う。が、言いたいことはここからだ。
何故自分が「思い通りならない」他人をそれでも理解しようとするのか。それは、自分の中に「思い通りにならない自分」がいるからだ。それが自分にとってストレスであるからこそ、人は他人とのつきあいでその解決方法を学習しようとするのかもしれない。そしてそういうお互いが引き合って、人のつき合いが始まっているのかもしれない。精神的な同じ悩みを分かち合いたい。そしてこのストレスから解放されたいのかもしれない。
何故他者を理解しようとするのか、ということの理由付けは色々とできる。しかし、それを知ることは目的ではない。
むしろ他者を内包している自分がうまくやることで、他人とも理解し合えることが証明されているのだと考えよう。そうやって他人とのコミュニケーションがうまくいくよう自分を上手に励ますことが大切だ。そういうイマジネーションが大切であると思う。
自分がうまくていっている時は、「だから他人ともうまくやれる」と思いたいし、他者とうまくやれているときこそ「だから自分をともうまくやれる」と思いたい。そういう原理として、自分の中身を都合良く考えていこうじゃないか。整合的にそういう事を発想できる。
そのために勉強が必要だと言うことはある。情報でなく知識としての教育が自分を成り立たせることができるのなら、それについては教育の勝利を意味すると思う。ともあれ、自分がどうにも成り立たなくなってしまったときに、自分のゼンマイネジを回す物。
そういった物を、なんでもいいから自分に用意してあげたいとは常に思う。
98.8.15
親の遊び
子供らが昔と変わったとは最近の大人の言いぐさ。ま、確かにその通りかも。でもね、大人だって変わったんじゃないでしょうかね。子供が車ん中で死んでいたとき、親はパチンコ打ってたり、餓死していく子供を無視して男に会っていたり。子供ばっかを責めるわけにもいきませんわ。
昔の子供と今の子供を比べる前に考えなければいかないのは、昔の大人と今の大人の差でしょうに。
どこが昔と今で違うのか。一つあげられるのは昔より今の方が大人の遊びが増えたってこと。
昔は「遊び人」なんて言われている人がいた。そういう人の遊びは、「酒、博打、女」って決まっていたもの。だから遊び人は男に定番があった。
でも今だったら「酒、パチンコ、競馬、競艇、女、カラオケ、ゲーセン、プレステ・・・。」幾らでも種類をあげることができますねぇ。だから遊び人の女性だって当たり前の時代。大人が仕事を終わって遊べば、当然しつけの時間も家庭の時間も減りますわ。
そういうの無視して「子供が変わった、子供が危ない」って言っていいんでスカね。戦後の貧しい時代が終わってしばらくは、親の贅沢遊びなんてなかった訳ですよ。で、戦後復興の中で「親の遊び」なるものが出てきたわけです。今の子供達は「親に遊びがある子供」の第一世代。遊びがある親の子供がどうなるかっていう最初の回答な訳だと思うんです。
でその回答が「子供が危険になった」というわけですね。
だったらいろんな親の遊びってのはなくなるか制限されるべきなんでしょうね。でもされないでしょう。
だって「親の遊び」って、立派な産業になってしまいましたもんね。
金が回っている以上、悪いと分かっていても続くんでしょうね。楽しいし。最後に誰が困るのか。
それって年老いてどうにもならなくなったその親たちだと思うのですが。子供らだっていい迷惑な部分もあるわけですしね。
迷いの時期に放り出されたまんまで。
98.8.14
大事な話
実家に帰ってまあ、人から聞いた話です。
ちょっとなんとも言い難い部分もあるので、隠して書きます。田舎の家族ってのはどこの家庭もたたけば誇りが出てくる物です。
ある家族がいました。そこにはきれいやお嫁さんと普通のお姑さんがいました。お嫁さんは外見、知能とも優秀だったのですが、性格のそれまでは異なりました。お嫁さんはお姑さんをいじめていたそうです。
やがて二人とも年をとってなくなります。そしてその後、その家庭に子供が三人産まれます。そのうちの一人が、なんというか「知恵足らず」というのでしょうか。先天的にそういう子供として生まれてきたと言うことです。
こういう不幸は多分子供を産むどの親にとっても心配の一つでしょう。そしてこういうことが現実に起こり得たとき、当事者の誰に責任があるわけではありません。当然、本人である子供にもです。
こういった子供を疫病神のように書きたくはないのですが、私の性根としてはもし自分が子供を授かるなら、こういった事にはなって欲しくないと思います。これを差別というならそうかもしれません。でも、好んで事故にあいたい人間はいませんし、好んでハンディを背負って生まれたい子供もいないはずです。
健全に健やかに五体満足に。
そういう意味で、嫌だなぁ、と思うわけです。
こういうことの表現はとってもグレーで、書きにくいです。話は戻りますが、その子供に対してその家族がどうあたったのかというと、非常に献身的に子育てを行ったそうです。当然といえば当然ですが、根気のいる事だと思います。
そしてもう一つ行ったことがあります。それはお姑さんを大事にしたという事です。家族はこう考えたそうです。
「昔、お姑さんをいじめたお嫁さんがいて、そういうことの罰があたってあの子が知恵足りずになってしまった。そういうことは今後、自分たちの家族に決してあってはいけないから、知恵足りずだと馬鹿にせずにきちんと子供の面倒を見なければいけないし、お姑さんも大事にしていかなければならない。そうしなければまた同じ事がおこる」
と。この話自体がだいぶ古い話なのですが、私はこれを聞いて「罪と罰」ということを考えずにいられませんでした。
そして、現実をきちんと直視できる冷静さ。過去のことを忘れない反省心。未来に対してきちんと律することのできる精神力。これらのなんとすばらしいことかと思いました。私たちは要求ばかりでなかなか自分を律することができません。が、この家族はそれを行い、さらには自分以上の物差しで考えることができるたのです。しかも昔からのいわれ「罪と罰」を、速やかに自分たちの実際に照らし合わせました。
彼らの現実は大変です。困難です。「知恵足りず」になってしまった子供の世話を一生見なければならないのです。
現実から逃げ出さない強さ、に感心しました。
罪と罰がはたして本当に存在するのかわかりませんが、それを信じ切ることのできる想像力に感心しました。
そして、現実を変えていく行動力と判断力に感心しました。それ以降、知恵足りずの子供はこの家族には生まれていません。
彼らの行動は直接出産には繋がりのないことです。それでも「次の現実を変えるのはその時の現実しかない」ということを強く感じずにはいられませんでした。ということです。
98.8.11
マイナスの思考
日本人は総じてプラス思考が下手だと言われている。僕もそう思う。
僕自身がマイナス思考の人間である。想像する時、「IF」で出てくるのは悪い想像が多い。例えば飛行機に乗るとき、どうしても落ちることを考えてしまう。(もし落ちたらどうしよう)会社を出るとき、マシンの電源を全て消したかどうか悩んでしまう。(あれっ、CD-R消したっけ?)こういうのって思い始めるとなかなか消えない。
例えば消し忘れのこと。もしそれで火事になったらどうしようとかまで想像してしまう。会社の電源ぐらいなら近ければ戻ればいいし、あるいは会社に電話して残っている人に聞いたりすればいい。実際することもある。
しかし、飛行機が落ちるとなったらこれはどうしようもない。飛び終わるまで答えは出ないわけだから。そういうとき、言い訳のようにプラス思考を考える。飛行機は事故率が一番低いとか、海に落ちれば死なないかもとか、俺だけは生き残るかも(なんて傲慢!)とか。
でも考えても考えても、結局マイナス思考の方が幅きかせてしまう。(数的にも、思いの強さ的にも)だからこそ思う。私はマイナス思考の人間なのだと。欧米人の陽気さがプラス思考を得意とするのも分かる気がする。
本当のプラス思考とはマイナス思考をしないことだと、切に思う。ちなみに、日本人の礼儀作法などはマイナス思考が生んだ物だと思う。
もしかしたらこんな事が失礼に当たるかもしれない、という過度なマイナスの思考。それが裏返って、「こうした方がいい」「こうすれば相手にとって喜ばれる、尽くせる」という行動を生み出していると思う。
予備、こそが日本礼節の本質だと思う。
そして予備とは、様々な悪い想像をできる人間こそが行える物だと思う。ある意味、マイナス思考をうまくやり過ごすための方法論、それが日本の礼儀作法なのだと思う。
礼節の足りない私は、もっと勉強した方がいいのだろうか・・・。
世の中、変わらないものもあると思うんですよ。
例えば、太陽にありがたいと思う気持ちとか、月にロマンスを感じたり、波に落ち着いたりとか・・・。
(久保田利伸がラジオで言ってました。)
98.8.9
里芋
長い間、文章を書くことから離れてしまった。ネタはあったんですが、眠くって寝てしまっていました。夏負けでしょうか。
特に花ちゃん。一昨日の夜に書くって言って、結局今日まで引きずってしまってゴメン。実家で梨ごちそうするから勘弁してね。「鍛えて最強馬をつくる」という本がある。これは競走馬の調教師であった故・戸山為夫調教師が書いた、最初で最後の本である。ミホノブルボンという名馬を排出しながらも、その時既に体は癌に冒されていた・・・。病床で書きつづった最初で最後の一冊。それがこの本である。
私はこの本をもう何度も何度も読んでいる。風呂でも読む。ちょっと行き詰まったり、スランプになったときにこの本に手が伸びていることも多く、そのたびに何かしら確認することがある。私自身の生活も、この本のコピーであると言っても言い過ぎではない。と、それくらい感銘を受けた本である。
その本の中に、戦争後の事をつづった章がある。戸山一家がひもじさを凌ぐために、河原の土地を開墾する話だ。作物は川が氾濫しても丈夫に育つ里芋を植えた。そして、その年、たわわに里芋が実るのである。
これが実に見事に実った。一つの株が幾重にも根を伸ばし、そこについた芋がさらに根を伸ばす。戸山少年は「里芋という物はなんと実りのよいものだ。」と思ったという。
しかし翌年、里芋の出来高は減少してしまう。そして年を重ねるに連れ、里芋の数は減り、芋の大きさは小さくなり、味はえぐくなってしまう。この原因は何であろうか。戸山調教師は答えている。
一年目は、開墾したばかりの土地で、特に作物が育っていなかったから地力があった。だから里芋は自由奔放、豊かに育って良い収穫をもたらした。
そこで私たちは錯覚してしまう。「里芋はこれくらいできる物なのだ。」と。
翌年、畑は地力を使ってしまったにもかかわらず、同じように作付けを行った。未開墾の昨年と異なり、今度は土地の栄養分も十分ではない。だから収穫量が落ちる。
すると人間は「こんなはずではない。」と思うようになる。その結果畑に昨年以上の苗を植え付ける。土地はさらに地力をなくしているからもっと収穫量は減る。味も落ちる。
こうして悪循環が生まれていったのだ、と。どうすればよかったのか。戸山調教師はそれについても答えている。
出来高を錯覚したことが間違いであった。そしてきちんと土地を休ませ、その広さに相応の作付けを行うべきであった。
農作物を作るということは、土地の地力を奪うことである。ただ土地に苗を植えれば、いつもきまったように作物ができるわけではない。
さらに土地の地力を奪うという前提で、如何に土地を回復させるか、どれだけ土地から地力を吸い上げるかを考えなければならない。土地の地力を一気に吸い尽くしてしまえば、一時的には多大な収穫を得ることができるが、それ以降土地が回復するのには、想像以上の時間がかかる。それよりも毎年計算されただけの収穫を積み上げていった方が、結局は収穫量が多く利益が高い、と。ここまで読んだ方は「里芋」「地力」という言葉を「能力」「体力」と置き換えて考えて欲しい。そのまますり替えて読んでしまうとちょっと無理がある。けれど、だいたいの内容は分かってもらえるのではないだろうか。
仕事にせよなんにせよ「人間、追いつめられればなんとかなる」という。確かにそれはそうなんだけれど、それって長くは続けられない事だと思う。そんなの続いたら、体壊れちまうよ。
自分で自分を追いつめる分にはうまくいくんです。自分で休む時をうまく見つけるから。地力の回復ならぬ体力の回復を行えるから、辛いけれどもまあ問題はない。問題なのは、人によって追いつめられてしまったとき。
もしそういうことになったらそこから抜けるために何とかするよね。そうすると頭の悪い人は、「こいつおいつめ続ければ、これくらいの効率で仕事ができる」と勘違して、どんどん無理いってくる。
私がそうとは言わないけれど(笑)、仕事の都合でなくそういう風に迫ってくるとしたら全く不幸な話だよ。
自分の選んだ仕事だから、仕事としてそういう不具合がでてきて頑張らなければならないってのは泣き言言いませんけどね。でもさ、誰かの仕事まで追いつめられてするのは納得行かないはずだよね。管理職ってのは誰でも実は行っているんだよね。自分が他人に対して、あるいは自分が自分に対しても。その時にね、どれだけの仕事(成果)が欲しいかってのは当然考えるんだろうけれども、どれだけの力を奪っているのかってのも考えないと、結局あの里芋のように「総合的に」損をすると思うよ。
特に他人を管理する場合には「人の力を使わせてもらっている」んだからね。そうなのに無骨に人に物をいうのは、私嫌なんです。
そして「どれだけの力をつかうのか」ってのはやっている人しか正しく計れないと思うんだ。そういう意味で、やっぱり体験っていうのは大切な物だと思うし、一つの体験にいろいろと「IF」を与えてみて、その体験を膨らませていくってのは大事だと思う。
うん、イマジネーションだよね。
リスクはすぐに目に見えて表れるが、メリットはなかなか目に見えるようにならない。
(戸山調教師「鍛えて最強馬をつくる」より。)
98.8.3
悪魔のささやき、CrossPad
Newtonが開発停止になってしまったことに、私はかなり吠え続けているが、アメリカはやはり遠い。なかなかに声が届かないので、どうしたものかと考えている。
で、そんなこんなしている内に耳にしていた、新たな機器がかなり魅力的に映ってきた。それがこれだ。CrossPad。こいつは、紙の下にひいて使う。で、紙の上から専用のボールペンで書くと、カーボン用紙のように、筆記のあとが残るのである。PCとのデータのやり取りももちろん可能で、簡単な文字認識(英語のみ)もできる。
A4サイズでだいたい50枚程度の記憶ができる。これは私個人の意見では少ないが、だからこそ300ドル程度という安値に仕上がっているので何とも言えない。実際の利用方法は腐るほど考えられるだろう。一番手っ取り早いのは、会社の共同のホワイトボード(メモ)をこいつで行うことだ。バックアップデータを簡単にかさばらずに取っておける。何かあったときに、うやむやにならずにすむ。
あるいは、絵描きさんで紙に書いたデータをスキャニングする人も多いという。スキャニングの代わりにこれはどうだろうか?50枚スキャニングするのは根気がいるが、これなら何も気にしなくてよい。こういうデバイスの優れているところは、入力の手間がかさばらないことだ。そして、キーボードアレルギーの人でも、比較的簡単に扱えることだ。
また、データの本来の優先順位は、1.残っていること。
2.様々に利用できること。であると私は思う。ビットマップとして残ったデータは日本語テキストにはならない。しかし、残っていればまず眼で確認できる。それをテキストに打ち直すことも可能なわけだ。
いきなりテキストに残そうと思えば、おっくうになってデータが残らない。が、ビットマップとしてでもデータが残れば、そこから何とかなるのだ。そしてデジタルデータは劣化しがたく、場所をとらない。
Newtonも様々なデバイスが研究されていて、実際にA4サイズのデバイスの試験機も制作されていた。数年経ってこうしたデバイスがでてくるにつれ、Newton開発チームの先見の明を知る思いである。
が、商品にならなければ意味がない。そこら辺のおマヌさもAppleっぽい。(馬鹿野郎!)NewtonユーザとしてCrossPadを見ると、Newtonのスケッチの機能のみをうまく取り出したと感心する。手軽にメモできる手帳のようなデバイスではないから、MessagePadとは目的が多少異なる。が、OS的にはこういった機能もサポートしてる。MessagePadではないMemoPadとして、大きく薄いデバイスにNewtonOSをのせれば、こんな感じなったはずだ。
CrossPadに話が戻るが、用途さえあれば300ドルは安い。すぐにでも手に入れたい商品だ。しかし、こいつにもネックはあって、ペン内の電池が日本の規格外だということ。
ああ。アメリカはやっぱり遠くにありにけり、と思うのであった。