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98.9.30
イテテテ

 また歯茎が痛い。虫歯?知覚過敏?
 とにかく氷枕抱いてねよう。

 残業で10時頃に会社を出る。
 日本橋の駅でちょうど喧嘩始まるのをみたぜ!

 面白そうだったのでずっと見ていたかったけそ、遅いし巻き込まれてもめんどうなので帰った。

 一人は酔っぱらっていたみたいだった。






98.9.29


 先日、弟と久しぶりに喋る機会があった。

俺:「にしてもさ、俺と同い年で結婚で子供までできてびっくりしていたけれどさぁ、よく考えたらお父さんも同じ歳に俺生んでるんだよね。そう思うと結構感慨深いぜ。」
弟:「おー。でもさ、お父さんは高卒じゃん。高卒の24と大卒の24は違うぜ。お父さんは早くないって。」

 これ聞いて「おー」と思いましたよ。弟も高卒なのですが、僕自身にはそういう観念が全くなかっただけにびっくりしました。驚かされた。

 弟は来年成人式なのですが、子供と見ないように気をつけて喋るようにしています。別に子供と見たことはないんですけれど、どこかでそういう気持ちはあるかもしれない。弟だからって、いつまでも年下で子供扱いじゃあ無礼ですから。そもそも歳の差が人間の優劣の差でもないし。
 と思いながらもですね、先述のようなことがあると、「おー」と思ってしまうわけです。弟にそういう核心的な部分で驚かされるはずがない、そう思っているわけですね。
 なんという兄貴心の傲慢さ。高見にのぼったことよ。
 ああ、気遣っていてもやはり兄貴とは鈍感で愚かだなぁ、と思ったひとときでした。

 とはいえ、弟に僕のいうことが通じないことも多々ありますよ。そういう時に、自分のそのころを思い出して、弟の立場を疑似してみることはあります。
 歳の差は4年あるのですが、4年前では人間が全く違います。自分のそのころを思い返してみると、「ああ、あんな感じの頃ではわからないかも。リアルに想像できないかもなぁ」と思って言葉を変えてみたり、もう少し相手の言葉を聞いてみたりすることもあります。
 これは年上の傲慢さではない、そう私は思います。
 ただ、実際に年下の人間がどう思うかはわかりませんが。

 ともあれ、他人同士が配慮することは大事なことですし、そのうえでいうべき事が見えてくるものです。(はっきり言うべきかどうかとかね。)

 しかしそういう部分では、兄ちゃんって不利な気がするんだよなぁ。
 服とかはやっぱり弟の方がお古が多かったしね。


 アントニオ・カルロス・ジョピンの息子。これがですね、やはり父親同様にミュージシャンな訳なんですが、彼がですね、自分が新しく作った曲を聴かせてくれるというんですね。
 で、彼はふと近くにあるピアノで弾き語りをしてですね、聞かせてくれたんですが、そこで僕はすっごく寂しい、惨めな気持ちになったんですね。
 それはなぜか。僕は、いや僕等ミュージシャンのほとんどがですね、人に自分の音楽を聴かせるときはテープやCDで聞かせるのが当たり前になってしまった。
 でも目の前の彼は、自分の歌を自分のプレイと自分の声で、生で聞かせてくれたわけです。
 目が覚めたというか、初心を思い出した。何か大事な物に気づかされた。
 そんなひとときがあったんですね。
(というような事を、久保田利伸がラジオでいっていました。)






98.9.28
One&All

 感じることの多い日々だ。

 最近ふと感じたのは「人間は本質的に一人である」ということだ。
 いや、これはもうずっと前に感じていた。だからこそ他人と心底つきあえないのかもと暗い気持ちになったこともある。
 しかし最近、ふとこれに続く言葉が浮かんできた。

 「だからこそ、人間は一人になってはならない。」

 何でこんな言葉が浮かんできたのか。自分でも不思議でしょうがない。しかし、この言葉が自分の中でとてもしっくりしている。自分で納得できるのだ。

 僕等が生まれ育ってきた時代ってのは「集団主義」から「個人主義」への変遷のなかにあったと思う。そしてそれは今も続いている。「人間の個性」を信じて個人主義は広まっていったと僕は思うんだけれど、それはあまりにも理屈っぽすぎる気がする。

 仲間がいれば楽しい。でも喧嘩すればにくい。
 どっちをとるかって問題なんだけれど、個人主義と偽って、つき合いのめんどくささから離れていった。それが「個人主義」の正体ではないかって気がする。要するにめんどくさがりで卑屈な態度なのだ。ちょっとそんな風に感じている。

 いや、個性というか、個人は相変わらず大事な物だと思う。変な普遍性に個性を殺す必要はないし、だれかれ偏りがあるのだ。それを恥じることはない。恥じないでいられる自信を与える。そういう個人主義は大歓迎さ。

 でもね。それだけにむかって、とにかく早足で歩いていった気がするんだ。今までが。
 そろそろ振り返ってみてもいいと思うんだよね。素直に振り返ってみて、ちょっと一本道すぎた気がするんだけどなぁー。

 「人間は本質的に一人である」
 「だからこそ、人間は一人になってはならない。」

 この二つを、不自由なく抱きたいものだ。






98.9.27
特別減税

 特別減税をしても景気が上がらない、上がらないって訳が分かったよ。
 今月の俺の給料、ちょうど生活ぎりぎりの所なのね。で、特別減税なかったらマイナスなわけ。
 とりあえず、橋本総理ありがとう。

 でもね。それでも生活ぎりぎりですよ。大きな買い物できるわけありませんわ。
 ましてや、バブルの頃のように景気が上がるわけありませんわ。

 庶民感覚ってこういうことです。
 小渕さん。分かります?

 大将として、太っ腹の行動を望むのみ。
 日本人は殿様を好む。
 あるいは、織田信長。


 自分を一番自由にしてくれる束縛は何か。
 それを大事に思う心を育てよう。
 (新ゴーマニズム宣言special 戦争論より)






98.9.24
給料日

 また最近残業が増えてきた。金が入るが生活がしぼむ。複雑な心境なり。
 にしても今の俺を支えているのは明日の給料日。残業少ないからもらいも少ないのは明白。
 秋になって競馬が始まるというのに、資金がたりない。
 それ以外のことでも、資金が足りない。

 水を買っている私には、実家静岡の水道がうらやましい今日この頃。


 俺にクリスマスは関係ありませんや。
 12月?有馬記念しかねーだろっつーの!エアエアエア!






98.9.21
秋刀魚のおいしいいただき方を考えよう

 一年中秋刀魚が好きだ。
 秋になると秋刀魚が一番うまくなる。だから秋が好きだ。

 うちの台所は@型の電気コンロだ。でも俺は魚をガンガン焼く。そして上手に焼ける。
 そのこつを紹介する。僕が正しく秋刀魚を焼いているか検証して欲しい。

 日本料理は下ごしらえである。これは秋刀魚にも言える。
 秋刀魚を買ってきたらすぐにやること。それは秋刀魚を塩にすることだ。塩は荒塩でなければいけない。これを私の場合は前後に切り分けた秋刀魚に両面振ってやる。こうすると余計な水が飛ぶので、フライパンでもきれいに焼くことができる。本当は切らない方がいいのかもしらん。

 焼く時のコツ。待つことである。
 火は強火。魚は焼けゴロになればひっくり返したときにその皮がパンにくっつくことはない。身から出た油ではがれが良くなるからだ。だから焦らずじっくり焼く。強火でも油があれば心配するほど焦げることはないと思う。が強すぎるようなら弱火に。

 食べる際には好みの添え物をするとよい。
 大根おろし。基本なり。カボス、私はこれが好きだ。魚と柑橘類がいかに相性がよいか。食の広がりを与えるか。是非知って欲しい。なので個人的にカボスを推す。
 カボスを使うならば大根下ろしは必要ないと思われる。大根下ろしもカボスも、薬味としては強い方だと思う。

 簡単に手順を追ってみた。個人的に上記でもっとも大切なのは「塩をする」事だと思う。これで焼き加減が全く変わる。また、「支度をする」という習慣は身につけると色々と応用が利く。秋刀魚も日が持つようになる。

 あとは炭火があれば最高である。
 昔の調理器具の方が不便だが、味はこちらのほうが上だと思う。

 あたりまえが、いつしか贅沢になった未来。


 best will be better
 better will be good






98.9.19
歯が痛い

 このところ、歯が、歯茎がいたいっす。
 何で?
 今年は我慢の年なのかな?
 歯医者はいったばかりなのだが。

 創作で物を書くのも、大変だけど楽しい物ですね。
 ちょっと味をしめた。






98.9.18
花束

「由美子が結婚するんだって。」

 その言葉を聞いて僕は少し驚いた。当たり前の展開で解りきった結末だったのに、僕は戸惑いを覚えた。
「ふーん。そうなんだ。じゃあ、みんなで花でも贈ろうか。」
 とりあえず5人で3000円ずつだしあって、花束を贈ることにした。ささやかなプレゼントしか渡せないが、こちらの財布にも余裕がない。三人よれば文殊の知恵。数が集まればなんとか形になるだろう。
「じゃあ詳しいことは今度ね。」
 そういって電話を切って、僕は大きくため息をついた。
「どうしたの?」
 僕のため息に恵美が応える。僕の奥さんだ。

「ん?高校時代の友達が結婚するんだってさ。」
 自分の気持ちをはぐらかすように僕は応えた。心の中でだって「初めての彼女が」とは言えなかった。
「でさ、プレゼントをみんなで贈ることにしたんだ。だからさ、5000円家計から助けてくれないかな?」
「なにいってるの、3000円でしょ?せこいことしてごまかさないの!」
 電話口での会話は、彼女の耳にすべて筒抜けだったらしい。
 勘の良い彼女。僕の心まで筒抜けている気がして怖い。

 高校時代。友達から始まった二人だった。恋心を覚えたのは僕が最初で、結局由美子をそこに引きずり込んだのは僕だ。由美子は友達として僕を見ていた。だから僕の恋心をうち明けたとき、彼女は僕を素直に恐れた。
 次第に由美子が遠ざかっていく毎日に、僕は本当にしつこい男になった。由美子が他の誰かを好きになったと聞けば素直に嫉妬した。「あいつは嫌な奴だ」そうはっきり言ったりもした。今思えばなんて奴だろう。本当に嫌なやつは自分じゃないか。

 それでも由美子が僕とつきあうことになった訳は、彼女の優しさと、男に対する免疫のなさだったと思う。そして僕の女性に対する免疫のなさもだ。とにかく馬鹿正直に由美子につきまとううちに、彼女が僕を理解しようとしてくれたのだ。元々友達なのだから嫌いじゃない。そこに由美子のやさしさが合わさって、遠ざかった二人の距離が少しづつ縮まったのだ。

 始めてデートしたときも、今振り返ればどうしようもなくつまらないデートだった。どこかのおいしいお店に入れなくて、マクドナルドで時間をつぶしたりした。レコード屋を見て回ったり、公園で黙ってベンチに腰掛けたりしていた。端から見て退屈そうなそのデートが本人達にとって退屈でないのは、それがお互いにとって始めてのデートだったからだ。
 今そのデートに成績表をつけるなら「がんばりましょう」が関の山である。ただひとつ、あの時由美子に気を使い続けたやさしさは、不器用ながらも「よくできました。」だ。あの時のように今、女性と向かい合うことはできない。

 本当にお互いが好きでつきあい始めた訳ではなかったから、自然に別れも訪れた。最初に根をあげたのは実は僕の方で、今思えば求めすぎていた。由美子はそんなに喋ることが好きではなかったのに、僕は彼女にもっとしゃべってほしいと口うるさく言った。僕は由美子に理想の女性像を押しつけた。そして由美子はそれにしばらくは従った。
 しかしそんなことも長くは続かない。由美子は根をあげ、そして僕に訴えた。「もっと楽にしたい。」「もっと普通につきあいたい。自然につきあいたい。」と。僕はその言葉が最初わからなかった。「正直に僕は言っているのに?」と思った。そして友人の頃にはなかったような喧嘩をして、僕は自分からふっかけた喧嘩を、自分から降りてしまったのだ。

 それでも別れると決めたとき、お互いに後ろ髪を引かれた事を覚えている。いざ別れるとなると、二人がつくった形を壊すことに、お互いためらった。けれど結局別れた。そして時間が経つに連れ、そんな気持ちも忘れてしまった。
 高校を卒業して、二人は互いの連絡をとることもなくなった。

「ごはんだよ。」
 という恵美の声で我に返った。
 一人時間をさかのぼってみて、自分が由美子の結婚に嫉妬していることを感じた。食卓に腰掛けて、恵美と向かい合わせに食事をとる。僕は自分をごまかすようにいつもより大げさにいろんな話題を振りまいた。だが、恵美の反応は冷たかった。
 思えば恵美もあまり喋るのが好きではない。けれど僕は彼女と結婚して、彼女を愛していると自覚している。僕はあれから成長したはずだし、恵美は由美子とは似ているかもしれないが全く違う人間だ。あの時のような不満を、今感じることはない。
 幸せだと思う。でも何故由美子の結婚に不満なんだろう。
 どうして彼女の結婚を素直に喜べないのだろうか。

 まさかこんな事を恵美には口にできないから、一人でどうしてなんだろうって考えた。思えばもう何年もずっと由美子にはあってなくて、思い出す顔といえば高校時代のあの顔だ。僕の中で由美子は持ち物のように時間を止めているけれど、現実の彼女はもうずいぶんと変わっているはずだ。
 そして自分の無責任さに気がついた。由美子の結婚を許せないこと。それは僕の中の由美子が自分の思い通りにならないことへの反発なんだと。あの時別れたけれど、その後も僕は由美子を好きなんだ。大事な思い出として、彼女を僕はずっと大事にしてきたんだ。

 そして現実は由美子は結婚していく。
 僕は自分勝手な思い出を捨てなければならない。

 僕は自分勝手に由美子を思い出の中で抱き続けていた。彼女の結婚、それが高校時代のあの恋愛から、やっと僕を卒業させてくれる。そして好きなことと愛することの違いに、やっと初めて向かい合った気がする。僕は僕だし由美子は由美子なんだ。
 僕は本当に恵美と向き合って生きていくんだと、やっとわかり始めた。

「ごちそうさま」
 そういって僕は席を立った。そして、
「どんな花を贈ったらいいと思う?」
 と恵美に聞いてみた。
「うーん。赤い薔薇だけは駄目よ。彼女にもう情熱は必要ないんだから。」
 ああ花言葉か、と僕は感心した。そして彼女の勘の良さに、改めてヒヤッとした。

 僕等がすごした時間を、そして僕が今過ごしている時間を、そっくりそのまま由美子に手渡したい。胸をはって由美子を祝福できる自分を、そして自分の気持ちの数を、花束のにぎやかさにかえて由美子に贈ってあげたいと思う。
 ありがとうも、さよならも、好きも、嫌いも。あるだけを全て。

 花言葉なんてしらないけれど、それはそれ。
 花束を、色とりどりのことばにかえて。


 このページこの文章にインスパイアされて創作してみました。
 創作ですよ。フィクションです。
 感想などいただけましたらmailto:taka0205@fa2.so-net.ne.jpまで。






98.9.17
風邪気味

 ということで、おとなしくしています。
 でも、いまいち良くならない。






98.9.16
その音楽を「リアル」と思えるかどうかというところ

 音楽雑誌は皆さん何をご愛読だろうか。私は「ミュージックマガジン」を愛読している。大学時代に図書館にたまたま置いてあったのだが、そのままそれを立ち読みし続けている。社会人になってからは近所の図書館にも置いてあるので、色々と便利だ。
 ミュージックマガジンは一番客観的な音楽雑誌だと思う。偏りなく広範囲な内容のため、色々と参考にできる。また、「とうよーずトーク」が最高。爺のくせにあれだけ切れ味のある文章を書き続けられるなんてげすげーぜ。あんた最高だよ。
 ちなみにとうよーずトークは音楽のことを語るというよりは新聞の社説に当たるコラムだ。それがそこらの新聞より鋭く現実で真実なのである。

 専門誌に社説的なコラムが必要かどうかは人によって判断が異なると思う。そして私は必要だと思う人間である。雑誌全体の偏り具合をその雑誌自体で計るためには、雑誌自体がその体内に客観的な記事を持つべきだと思う。もしそれができなければ、単なる「マニアックな思いこみ雑誌」で終わってしまうだろう。確かにそういう需要もある。しかし、「万人に対して」という条件の下では説得力が足りない。
 記事である以上は、言葉である以上は少しでも多くの人に伝わるべきが理想であると思う。そうなると「客観性(一般的な視点)なき文章は基本的に不十分」と私は考えるのである。少なくとも、マニアックなだけでは足りないと思う。

 ま、そんな話はさておいて、私がとっても気に入っている「DragonAsh」の「BuzzSongs」はミュージックマガジンのレビュー上では「6か7」の評価だったと記憶している。レビュアーがいまいち乗り気でないといった感想を書いていた気がするが、私自身としては「9か9.5」位の評価なので不満が残る。
 音楽を「いい」と思うかどうかは、理屈よりも感情が先に立つものだ。そして感情にドカンとくるかどうかは、その人の人生に深く関わっていると思う。それは人生の過ごし方はもちろん、どの時代を生きてきたかということも深く関わっている。

 人間20代までの音楽が一番人生で印象に残っているという。これは人生の一番多感で変化が激しくて急がしい時期がその頃だからだという。確かにこれは分かる話。一番ストーリーの多い時期。そのころの事件と感情の多さに比例して、歌が数多く心に絡み合っていく。そして、忘れがたきものになっていくのだろう。
 結局それがその人の音楽の基準になっていく。それと同じ物は楽しめるだろうし、それと違う物は面白いともつまらないとも人は捕らえることができる。現実はつまらないと捕らえる人の方が多いようで、それが結局「人間20代までの音楽が一番人生で印象に残っている」という結果になっているのではないだろうか。

 思うにDragonAshを評価したレビュアーも、自分の中の音楽とは異なるその音が「自分にとってはつまらなかった」ということではないかと思う。その人にとってはつまらない方に違ったということだ。ただそれだけのこと。だから私の評価と違うことに不満は残っても、納得できる話なのである。

 多分ブルーハーツをリアルに感じることができた世代には、DragonAshはリアルに感じることができるのではないかと思う。音楽はまったく違うけどね。コアな部分が近いと思う。

 それにしても日本には老若男女だれでも共通に楽しめる音楽がない。それが本当につまらない。確かに各年代でその音楽をリアルに感じるかどうかの差がある。だから仕方ないのかもしれない。しかし「リアル」である物から離れた物に対して、あまりにも日本人は保守的ではないかと思う。確かにそのままが楽で、変化を受け入れるのは体力がいる。
 しかしそれをしないというのは、ある意味人生が止まってしまった気がするのだが・・・。

 ま、でも確かに「これいいよ」って勧めてくれたアルバムでもね、勧めてくれた人になったつもりで、その人の感受性で聞いてみる。そして自分なりに解釈してみる。その一連の所作ってのはすごい精神的に大変ですよね。

 俺も勧められて「んだこりゃ」ってのあるもん。
 で、半年後に聞いたりすると「おお」って思ったりするの。はは。


 中央線はおもちゃのようによく止まる。






98.9.15
嫌いな人

「ごめんなさい」が言えない人


 陽はまたのぼり繰り返していく僕等の空をのみこんでいく
 生き急ぐとしてもかまわない飛べるのに飛ばないよりはいい
 (陽はまたのぼりくりかえす/BuzzSongs:DragonAsh)






98.9.14
金がないのにやっちまった。

 DragonAshというトリオバンドをご存じだろうか?ボーカルアンドギターの子が19歳という驚くべきバンドなんだが、音楽がいい。「Under Age's Song」という曲がラジオでかかっていてよかった。で、それがずっと気になっていた。
 明日は休みだ。阿佐ヶ谷の駅を降りてそのまま新星堂に足を運んだ。そしたらCDがあった。アルバムが俺を呼んでいた。やってもーた(笑)。
 ちなみに一通りきいてみて非凡な才能なのは分かります。特に詞がね。天使だとかそういった言葉がよく出てくるし英語の歌詞がほとんどなんだけど、この子はキリスト教を信仰しているのかな?とちょっと疑問型。でもそういうのは関係ないのですが。
 件の「Under Age's Song」は詞が良かったです。これってはっきり言ってロックアンドライムでかなりラップに近いと思うんだけれど、ライムの流れ方がいい。しかもちょこっとしたメロディの部分もいい。いや、これで19歳ですか。やっぱり感受性の怪物ってのはいる物です。
 ちなみに、私「ラップ」と「ライム」の正確な違いって物が分からないのですが、だれか知っている方いらっしゃいますかね。私は気分で使い分けていますが。
 彼らは日本語の詞の方がいいです。メロにもうまく乗ってるしね。このアルバムの最後に入っている(といっていいのだろう)「陽はまたのぼりくりかえす」という曲もいいです。大人を勇気づけてどうするんだコラッてかんじ。90年代のブルーハーツなのかもしらん。
 この子達は同年代に売れるでしょう。こういうのを若い子たちがバンドでやってくれたらいいなぁ。そう思う。文化祭でこれやってみ、かっこいいで。俺だったらその瞬間を一生大事にするね。それくらいに存在感は見せつけているよ。大人に見せつけてやれ!

 話は変わるのだけれど、子供から熱を奪い取ったら大人になるのだろうか。ふとそんなことを考えた。熱が罪なのか。熱を奪うことが罪なのか。熱を忘れたのが罪なのか。よく分からないけれど、そんなことがふと頭に浮かんだ。
 大人の口癖は「いつかやろうと思っている」だと俺は思っていた時期があった。が、それじゃあカッコ悪すぎるぜ。これは最近思っていること。
 結局できないんだよ。そういう人は。自分からステージを降りちまったのさ。そう思うよ。やるだけの熱が残ってないのさ。毎日のことを一通りやったら余力がなくなっちまうのさ。だから疲れてできない。だから「いつか」が本当にいつかになっちまうのさ。
 自分で選んだはずの仕事に無責任に愚痴をこぼしたり、文句言ったりしてね。そりゃぁ、ストレスもたまれば余力もなくなるわなぁ。でもそういうときこそ大事なんだと俺は思うぜ。
 「できない」って思うんじゃない。「やりたい俺がいるんだ」っていうぎりぎりの所。それだけはぜったいに忘れては駄目。なくしては駄目。自分に残しておかないと。
 「やりたい俺」がいれば、遅くなってもいつか一歩踏み出せるぜ。その一歩があれば次の二歩目もそのうちできるぜ。そう思わないと駄目だ。じゃないと結局「行為」が「つながらない」んだ。身になってくれないんだ。
 金がいる訳じゃない。天才の才能がいる訳じゃない。必要なのは誰でも持っている「想像力」の問題なんだと思う。タダだ。誰にでもできることだぜ。だったら馬鹿でもいいから「やりたい俺がいるんだ」とだけは思い続けて欲しいんだ。
 できないと簡単に結果づける。本当はしたいくせに、ちょっと厳しいからって自分に嘘ぶいてあきらめていく。時間がたってゲームオーバーになってから嘆く、人に当たる。遠い目をする。そんなの悲しすぎるじゃないか。やめてくれ。友達とか周りの人とか、そして自分よ。そういうふうにだけはならないでくれ。俺はそんな君から目を背けるかもしれないんだ。そんな時の裏切るような嘘つくような気持ちだけは、できることなら避けたいんだ。

 今日続かなかったからって嘆くな。ずっと遠く離れているからってあきらめるな。一日でも続いたならそれを信じて次もいつかできると思えばいいじゃないか。そう思って次が続くなら、それまでの空いた長い日々なんてどうだっていいじゃないか。一歩がなかなか歩めないくせに、なんで完璧主義になるのさ。できたことを、やろうと思ったことをもっとうぬぼれて信じていいんだ。それができるくらい馬鹿になれる想像力。自分も他人も忘れないで欲しい。
 そういう熱はね。なくしても駄目。忘れても駄目。奪っても駄目。現実社会にはなかなか相容れない部分かもしれないけれど、だからこそ大事なんだと思う。

 社会に出て大人だから難しくならなければならない。それは事実でおれも認めるよ。
 でもさぁ、そういう子供からみた目新しさだけで、自分をいっぱいにしないでくれよ。背負う物もわかる。責任も分かる。でもさ、それを笑い飛ばせる大人でなかったらさ、自信なさそうな元気なさそうな大人ばかりだったら、父親母親ばかりだったらさ、子供達はどうやって笑えばいいんだい?

 そして僕らは自分を楽しめるのかな?
 他人と楽しく暮らせるのかなぁ?

 あきらめないでほしい。自分に、他人に、あなたに。
 そう思うよ。


 男?獣だよ獣。
 男はみ〜んな、獣。獣だよ。






98.9.13
同じですけど、変わりました。

 今日も元気に日記を書いている私ですが、このページが大きく変わりました。
 なんと、今日からHTMLの書き出しを、ファイルメーカーにやらせることにしました。ファイルメーカーはなかなか楽しいソフトです。個人的にはおすすめです。
 で、これによって私のほうにデーターベースとして日記が残るようになりましたので、リニューアルに時間がとられることもなくなりました。(別にリニューアルする予定はありませんが)また、個人的にもしばらくはファイルメーカーと歩んでいこうって気なので、勉強としてこういった試みをしてみました。
 ソースを見てもまったく変わりありませんが、たしかにこのページはファイルメーカで書き出しがされています。
 いや、ただそれだけなんですね。
 ですんで、今日は特に意味なしの文章です。

 ではでは、いくぞ。それ!書き出しだ!!!






98.9.12
秋ですな。

 そろそろ秋ですな。みなさん、ボーナスはまだ残っていますか?
 ボーナスでなかった人もいるかもしれませんな。そういう方、失礼しました。

 ま、なんでも知にして血にして肉にしましょう。
 芳醇の秋。実りの秋。それはそういう結果なんでしょう?

 自分自身味わえるような実りがあるよう・・・
 苦い物でもくってやろうじゃないの。




98.9.8
神様が放り出したゲーム

 神様がいるかどうかなんて分からない。特に日本人は神様への信仰がないから余計に想像できない。でも確かに昔は今よりも人口は少なくて、大昔はそれこそ数えるほどしか人間はいなかったはずだ。
 問題は誰が地球に人間という駒を置いたのかということだ。多分間違いなく進化の中で自然発生しただけなのだが、それにしても人間というのは特殊だ。ゴミを集めて道具にできる。再生できるのは人間だけだ。それは素晴らしいことである。でも同時にあり得ないような無駄なゴミを出す。再生までの間に幾度もなくゴミを出しては破壊する。自然の食物連鎖とは異なり、無駄の多い連鎖をするのだ。
 そういう人間が、何故生まれたのかを考えてみたい。その時、人間を必要とした存在があるはずである。それは人間より古い生き物(恐竜とか虫達とか)ではない。そう、神様ではないかと思うのだ。

 談志師匠がいってた面白い話で
 「結局地球は氷河期ってものを自分で起こしたけれど、それでも地球をきれいにできなかった。で、自分で責任をとりきれなくなって人間を生み出した。『ええ、人間という生き物がただ今一生懸命、環境を清掃中です。』とまあ、こういうふうにいえれば、地球は自分に責任がかからない」
 と。うろ覚えの話なので、これをもって師匠の所に文句をいいにいかないように。文責は私にあるのだから。

 俺は神様が人間を生み出したと考え、師匠は地球が生み出したと考える。で、気になることはただ一つ。神様でも地球でも、僕らを生み出した彼らは、今でも僕らを見ているのだろうか。今や人口は50億とも60億ともいわれている。人間を生み出した頃、多分1万人いればいい方だった人間がここまで増えた。さて彼らは未だに私たちをつぶさに監視しているのか。私たちを見ているのだろうか?

 神様は、地球はもしかしたらとっても偉大で、一人一人に未だ十分に配慮している。それができるくらい頭がいいのかもしれない。でも所詮こっちは人間。人間の頭で想像するに、「どうも俺達放り出させたくさい」んだよね。個人的にはそんな気がするが、みなさんどうだろうか?

 もしそうだとしたらこれから進む道は僕ら次第って事だ。地球を自然豊かな物にしようが、なにもない寂れた荒れ地にしようが、少なくとも人間の勝手がきく範囲は、俺達の責任で動いていいってことだ。
 当然そういう道のりでは他の動物とやり合ったり、自然とやりあったり、あるいは人間同士がやりあったりする。その中で僕らがどういう結末を見たいのか。それが大事なんだと思う。

 ゲームはもはや放り出された。
 その上で僕が考える、望む結末というのは・・・。それでも自然と文化(テクノロジーも含む)が融合した、それらの境界のない、きれいな世界なんだな。これが。

 DNAにでも埋め込まれているのかもね。神様が与えた義務が。


 花ちゃん、物は購入しました。日曜日に彼の所に届く予定です。(メールくれ)
 近藤と山ちゃんは共同で空気清浄機を送ったそうです。
 当然ネーム入り(笑)




98.9.7
最近

 最近は駄目だね。ねちゃって。
 基本的に俺の理想は一二時就寝、六時起床です。でも最近はなぜか八時頃から一回寝てしまう。気がつくと寝ている。だいたい十一時頃起きる。だらだらと皿洗ったり風呂入ったりして、目が覚めてきてこんな風に文章を書いて、二時頃に寝る。そして六時に起きる。

 なんで疲れっぽいのか分からないが、まあ一日力を使い切っているのかもしれない。そういう意味ではまあいいんだけど・・・。八時頃に疲れのピークが来てるってのもやばいかも。そこで一踏ん張りできるようになりたい今日この頃。

 親友に子供が産まれた。奥さんには本当にご苦労様といいたい。友人も責任が一気にできてしまったので大変だが、父親として頑張って欲しいし、一人の人間として人生を楽しんで欲しい。
 大人になると責任がついて回るようになる。父親になればもっとだろう。思うようにいかなかったり嫌なことまでやらなければいけなかったり。自分もそうだが、そうなったときは精出して頑張って欲しい。
 そういう意味でも体は資本。今以上に健康に気をつけたり運動をしなければいけないのかもしれないけれど、なかなか時間がとれないよね。悪循環?そうかもしれないしそうでないかもしれない。ま、やるしかない。やった人にだけ結果がついてくる。

 不平不満は言うのは簡単。克服するのは難しい。それでも俺は後者を選びたい。それが成長なのだと思う。自分の中にも前者はあるが、それだけだとも思っていない。それだけになってしまった時は、人間としての深みが止まってしまった時だ。

 ところで友人の出産祝いアンド新居祝いに炊飯ジャーを友人と共にプレゼントすることになった。金にあまり余裕はないが、できる限りいい物を買いたい。人にやる物ほど、お祝いの品であるほど奮発したいというのが俺の心情だ。
 てめぇの金なら多少は我慢してでも、いい奴を買ってあげられればと思う。こういう特別なときにまで経済に支配されたくないし、つかって喜ばれるものを、買ってあげられる立場なら買ってあげたい。
 炊飯ジャーを使ってくれて、楽しそうにしている、嬉しそうにしている家族の姿を想像する。そこに自分の利益を優先したせこい考え方や、寂しさの色が見えるのが私には許せないのだ。せっかくの家庭が濁っちまうぜ。
 だから、本当に主婦のように電気屋に吟味しにいってこようかと思う。できる限りの金額でもっともコストパフォーマンスの良いものを選ぼうと思う。

 最後に、大人の僕や君のために今日のget soulを送る。
 難しくなって身動きがとれなくなるのが大人の全てじゃない。


 楽しめるのが大人〜!楽しめないのが子供〜!
 大人は夜に遊んでいるから、子供が元気な昼間、眠そうな顔をしている。
 (ごっめん、何かの歌詞なんだけどアーティスト名忘れた。エレファントラブだっけか?)






98.9.6
real is the life

 夏、実家に帰ったときに忘れていった時計を持って帰ってきた。それ以来、会社に赴く私の左手には、再び時刻が刻まれるようになった。
 時計が手元にない日々は、時間を確認するために商店街の時計を使った。駅に着くまでに沢山の商店があり、沢山の時計が見える。間際間際に時計を確認しながら、急いだりスピード緩めたりして会社まで急いでいた。
 自分の時計が手元に戻ってからは、時間を確認することはたやすくなった。しかし他人の家の時計をのぞき込む癖は直らず、そして気がついた。
 各々まったく違う時刻を指しているのである。

 今まではのぞき込むその家その家の時刻が正しかった。だって、私にはそれしか与えられていないのだから。しかし自分の時計ができてそれと比較ができるようになって、各家庭の指す時刻のいい加減さが分かったのである。
 ほとんどの場合、家の時計は進んでいるようだ。時間に少しでも余裕を持てるようにという生活の知恵だろう。しかし、私自身もそうだが「先読み機能」がついているのが人間で、そういう時計には「50分だから今45分ね」みたいな感覚が働いてしまう。
 で、それを警戒したのか遅れている家庭の時計もあった。これは時計の方に余裕を持たせるのではなく、人間の方に余裕を持たせようというものなのだろうか。常に時間よりも支度しないと間に合わない。いい習慣ですがせわしないですな。

 ともあれ正しい時間は一つしかないのに、そうはしない、そうはできないという時計の事情が面白い。人間の生活に置いては正しい時間は理屈であって、間違った時間の方が実用なのである。
 これは人間にも言えて、理想の人間像は役立たずなのに、バラバラにちらばった個々の人間性の方が楽しめるのである。
 みんな同じいい子になっても役に立たない。そう時計が語っている。
 そうある生活がリアルなんだと、ちっぽけな時計が雄弁に語っている。






98.9.3
覚え書き

 実家に帰ってバーベキューをやった。その時に感じたこと。

  • もはや肉をがつがつ食える年ではない。魚の方がうまい。
  • ピーマン焼くならししとう焼け。
  • 年末は薪で汁物をつくって、残った炭でバーベキューやろう。
  • 従って毎年恒例のおでんは中止。あるいは縮小。
  • 汁物は鯛のあらでだしを取って、鱈か何かの白身を上品に具にしよう。間違ってもソーセージなどは入れない。
  • でもソーセージのバーベキューはあり。
  • ただしソーセージはシャウエッセンを最低基準とする。
  • サザエを焼こう。
  • 太刀魚なんかも焼いてみたい。
  • 秋刀魚ってのもオーソドックスだがいい。
  • 鮭を一切れ焼きたい。
  • 蟹を安くてもいいから焼いて食べたい。
  • イカを焼いたが、タコも焼きたい。
  • 焼きおにぎりはミソでやりたい。おにぎりの側面に自家製のミソをつけて、少し焦がしたやつを・・・。
  • 焼き野菜もうまいが、サラダか生野菜何かの方が野菜は食えるかも。
  • それにしても自家製のミソだけは作り方を何とかして覚えないとな。失伝するにはあまりにも惜しい。
  • おでんっていうか、煮卵がくいたいのかも。
  • バーベキューはとにかく炭火、網を持って基本とする。鉄板は焼きそばとかお好み焼きとか一気に腹にたまるものしか焼けないし、そのくせ後かたづけがめんどくさい。じっくりやってさっと片づけるには網。まあ、俺の好みだが。

 というわけで、無事に年末まで頑張りましょう。
 みんなで少しづつ金を出し合えば手に入る、大事な友人と家族とのごくろうさん。

 エロ本の自販機に書いてあったな。
 「暑い夏販売中」






98.9.2
ぽったりとしたハンバーグ

 僕はあんまり言葉を知らない。決してボキャブラリーはある方ではない。文章を書くとき、僕は新しい言葉を知りたいとはあまり思わない。それよりも、自分の知っている、身になじんだ言葉をどうやって使おうか考える。手持ちの言葉で如何にして僕の気持ちを伝えるか。そのために、言葉を変えたり、言葉の順序を変えたりして、方程式を解くかのように思い悩んでいる。方程式と違うことは一つ。正しい答えは一つとは限らないことだ。その時のあなた次第で、答えはいくつもの解釈を持っている。

 文章を書くときに間違えやすいのは、「自分の満足のいく文章を書いてしまうこと」だ。新しい言葉を知ったとき、難しい気持ちになったとき、そういう文章を書こうとして間違えるのだ。知らない言葉や、新しい理屈をたっぷり盛り込んだ文章を書いたとしても、あなたにはつたわらない。難しいし、自分勝手な言葉の寄せ集めだからだ。「自分の納得のいく文章を書くこと」それが今の僕の精一杯の方法である。良くできた娯楽のように、誰にでもわかりやすく同じ事が伝わればいい。自分のことをそのように理解してもらうのは、とっても大変な事だと思う。

 幸いにして自分を整理するために僕もあなたも言葉を使う。もう何千年と長く言葉を使っている割には、数えられる物以外はなかなか物事が正しく伝わらない。よっぽど僕らの言葉の技術が未成熟なままなのか、よっぽど人間の精神が難しく捕らえがたい物に違いない。どちらにせよ僕らは気持ちを持って生活していく。あるいは、僕らとは僕らの気持ちそのものである。とにかく少しでも気持ちよく自分がいるために、思いついたことを言葉にしていけたらと思う。自分にとってはそれがだいぶん役に立つ。自分を整理するいい手掛かりになる。あなたのためにも、僕のきれっぱしがちょっとはあなたの心のほころびにあてることができるかもしれない。

 言葉という表現、文章という物体に話を戻せば、まだまだしばらく書くことからは離れられない。素晴らしい書物を読んだときの爽快感。正しい気持ちを記してくれた事への尊敬、感謝。そういうものへのリスペクトの意味も込めて、まだまだしばらくは物書きの方程式は、パズルは続く。

 僕はこの文章を、食事で言えば100グラム位の正円のハンバーグだと思っている。あなたの心の食卓の、あなたのテーブルのあなたのお皿の上に、僕の文章がその程度のっかっていれば本当にありがたい。あなた心のナイフとフォークで、あなたの心の喉と舌と胃袋で、何かしら味わっていただくことができれば幸いである。できるだけ同じように伝わって欲しいと思うし、あなたなりの味わいを感じてただけるなら、十人十色、それが僕でありあなたであることだと思う。  



 携帯電話ができて、どこでも連絡がとれ便利になった反面、十分な用意をするという習慣は、どう考えても退化している気がする。
 例えばいままで以上に行動が増えるのではなく、ぎりぎりまで楽をするようになった気がする。
 (俺的な感想です。携帯電話を否定するのではなく、それをもつ・・のいくつかがね。)