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99.9.26
どうにもならないこと、どうしようもないこと

 台湾集集大地震が、とても気になる。
 友人に50才で元台湾人、現在帰化して日本人というひとがいるのだが、その家族が心配だ。電話してあげたいのだが、万が一の安否を考えると、気まずくなりそうで電話できないでいる。御両親や親戚の方々は大丈夫なのだろうか。
 トルコの大地震といい、台湾の大地震といい、だんだんと北に地震が向かっていることが気になる。けれど、気にしたからといってどうにもなるものでもない。こういうのは、どうにもならないもので、僕らがいくらがんばったとしても、もう、どうしようもないことだ。起きた結果に対して、ただただ僕らは対応するだけだ。
 台湾の大地震の後、どうしようもない状態から復興してくる人は、必ず出てくるだろう。どうしようもない状態からでも、なんとか立ち直ってくる人は必ずいる。そういうことが、人間の強さ。改めて感服してしまう。

 会社で、どうしようもなく頭にくるんだけど、新規事業の提案をしたのね。で、行程的にはコストも削減できるし、人員も削減できる、というわけ。でもね、後に続くの。
「でもね、人間が問題なんですよ。なかなか人間が動かないんですよね。これはねぇ、分かっていてもどうしようもないんですよ。」

 俺としてはね、こんなところで「どうしようもない」とか言われたくないんですよ。だってね、人間なんて一番柔軟でいくらでもかわることのできる存在のはずなんだから。僕らがいくらがんばったって地震は回避できない。けれどね、人間はがんばれば変わるんだもん。これは事実。

 でもね、事実と現実は違うんですよね。やっぱ変わるには努力というか行動が必要。可能性をあきらめないタフな精神が必要。そういう必要な要素を獲得していく際に、人間は壁にぶちあたるんです。そしてそこで負けてしまう人がいる。これが現実。そういう人の、自分を慰めるための敗北宣言。それが「どうしようもない」という言葉になっている。
 「どうしようもない」って言葉には、「みんながみんなどうしようもない」っていう意味がたぶんに含まれていそうで、それがとっても嫌。自分ができないのに、「僕だけじゃない、みんなできない」っていう言い訳やごまかしが含まれている。

 「どうしようもない」って簡単に言わないでほしい。
 本当にどうしようもないことがおこり続ける現実の毎日に、まったく情けない理由で、「どうしようもない」って、ねえ。

 確かに、どうしようもないっていいたくなるのは、分かる。そしてどうしようもなくもう変われない人もいる。そういう現実もわかる。でもね、そいうい場面場面でなく、すべてに対しての態度、姿勢を考える時にね、「どうしようもない」が前提では、何も改善されないわけ。
 俺も「どうしようもないとか言うなよ」と言いながらね、それがもう変わりようもないという空気も分かっている。でも、それでは他に示しがつかないし、他のこともとまってしまう。だから、黙認しながらも、その変わらない、どうしようもないものに、「どうしようもないっていうな」とはいい続けると思う。

 そして、事実としてね、やっぱり人間は一番変わることのできるもの。これは事実。

 例えばおっくうで、めんどうくさがりがね、新しい仕事に対応できないというばあいにね、これを「どうしようもない」というのはおかしいと思う。そのひとは「どうしようもない」から、対応できないわけじゃない。「おっくうで」「めんどくさがり」だから対応できないわけ。だったら「いかにおっくうをなくすか」「めんどくさがりをなくすか」を考えればいいし、仕事の方もどんなおっくうでも、どんなめんどくさがりでもできるように改善する余地がないかどうか、かんがえればいいわけ。他にもまだ考えるべき選択肢はあるだろう。
 まける前に、どうしようもないと言う前に、まずそしてずっと、そうした可能性と選択肢を常に考え続けていたいと思う。そしてもし自分にそういうアイディアがなかったら、人に「わからないんで、何かアイディアないかなぁ?」と聞けるような素直さ。それを常に持ち続けていたいと思う。

 それにしても会社の「どうしようもない」には、もううんざり。


 結婚式がは無事終了しました。みなさんどうも有り難うございました。
 すべての人に感謝しますが、特に近藤、山ちゃん。
 忙しい中を、気を使っていろいろ動き回って、手を尽くしてくれて、どうもありがとう。
 ほんとうに助けれられました。
 あと、花ちゃんも、つんちゃんも、忙しく懐が厳しい中を、どうもありがとう。
 ほんとにどうも有り難うございました。お世話様でした。






99.9.24
いつでも、どこでも

 弟の結婚式、前の晩。
 意外にばたばたしてしまった一日も、なんとか無事に終わりを告げようとしています。最後は、「ゆっくり休むこと」これが一番大事な仕事かもしれません。でも、興奮して高ぶった神経がゆっくりねつかせてくれるかどうか。神経までも疲れてしまえば、あとは眠りが引き込んでくれるのですが。
 個人的には今までで一番重かった帰省です。いろいろな現実、いろいろな考え方、いろいろな問題。そういった物への直面が一気にやってきたって感じです。その感想は、難しいというより「悲しい」。人間というものは、いろいろな可能性を諦めながら、その一方でいろいろな願望を抱く者だなぁと。そして時間は二度と取り戻せないということも。
 ある意味、現実を変えていく人間というのは、いろんな可能性に挑んでいく。そして現実をつぶさに、確実に観察しているのだと思います。そういう人間だけが、現実に変化というメスを入れることができるのだと思います。
 現実に沿った欲望、夢。それをみることができる。そして叶えることができる。

 結婚式に際し、いろいろとコメントやスピーチめいたものを、まあ公でなくとも求められます。そのときになにかを喋るとしたらなにをしゃべるのかな、と考えたりします。ま、若輩者故アドバイスなどはできないんですが、でもまあ、自分が人生でどういうふうにポリシーを持っていきたいのなぁ、と考えました。
 で、結論としてはまあ「必要な失敗をきちんと経験していきたいなぁ」ということに尽きます。人間の成長ってのは、失敗なしにあり得ないんです。終わりがはじまりを作るようにね。だから、無駄な失敗をせず(これはいいまわしが難しいのですが)、また失敗そのものを恐れない、避けない、逃げないということ。そしてそれらから何かを得ることを忘れないこと。失敗を引きずらず、そして失敗を凝視すること。正しく理解し、分析、何かを得られるよう考えること。
 そしてそれをいつでも、どこでも、実践していくこと。

 これが多分僕の目標だと思います。だから万が一なにかコメントを求められたら、多分そんなことを話すような気がします。

 うーん。こういうこというと、冷たいとか言われるんですけどね。
 でも、時間は戻ってこないから。はじめられることは、すぐに。
 だから、やっぱりこんなことを喋るような気がしますね。

 自分も、やっぱこんなふうに生きたいですよ。ほんとに。


 心は、楽しくなれば楽しい。






99.9.20
こころのかたち

 うまくいえないんだけれども、こころというものはなんなのでしょう。
 いろ、かたち、おもさ、ことば。どれかでなくどれもが、こころの要素である気がします。

 今確かに言葉にできるのは、色について。言葉について。

 色とはなんでしょう。色を知ることは知性だという人がいます。
 僕は、色はイマジネーションだと思います。心に伝えるのではなく、心を揺さぶる物。
 絵を見たときに、皆に同じように感情の情報が伝わることはない。けれど、皆が心を揺さぶられる時がある。
 色はイマジネーション。

 その反対がことば。ことばは情報を正確に描写するもの。
 言葉が与えるものは、リアリティ。それがどれだけただしく表現されているか。表現されたリアリティがどれだけすばらしいか。その2点について、僕らは正しい情報をお互いに確認したり、感動したりする。
 ことばは情報。それは知識。

 まあ、そんないろいろな要素をもったこころは、しかもその要素をいろいろとからめている。
 だからこそ人はこころをとらえたいという欲求にかられるし、それはむずかしいことなのだと思います。

 そういうふうにかかわれること。そういう間柄の人たち。
 その現実を大事に大事にすることで、いつかこころをまるごととらえられる一瞬がくるのかもしれません。

 という、今日の反省。


 帰り道の通りすがりの八百屋のおやじさん。
 「あついねえ。夏休みがもういっかいほしいよねぇ。」






99.9.14
タイミングの悪いこの頃

 マウンテンバイクを買おうと思っていたんですよ。で、ひさしぶりに新宿の自転車屋にいってみたんですよ。色の格好悪い売れ残りのバイク、あったんだけど「売約済み」。はー、買う気力が一気に消えてしまいました。っていうか、欲しいんだけどまた迷ってぐずぐずしています。金が無いときに物があって、金ができたら物がないんだもん。やだやだ。
 色は最初期に入らなかったんだけどね、「ま、盗まれにくいかも」と思うとだんだんとよく見えてきてね。もの見た後に帰省してその後ごたごたして時間がたったら物はなし。繰り返すもがっかり。

 もう一つ欲しい物。それはPowerbookの古い奴。Mac OS X Serverなるものをどうしてもノートで使いたいんだけど、Wallstreet(古い奴の俗称)はもう新品では売ってないのね。でそうなると中古とか個人売買なんだけど、これには保証がない。俺の今使っているPowerbook2400は、一回液晶が駄目になって、交換している。それが保証内だったけど12万位してた。この経験があるからもう怖くって怖くって。ちょっと保証なしのノートは買えない、と思っているが、そうなるとX Serverは夢のまた夢。これも困る。
 iMacを買うって手もある。これだと10万で中古の物は買える。あとはメモリを足して12万。x serverが6万。合計18万。俺はノート主義なのでそうなったら2400が売れない。でもサーバとクライアントでマシンは2台あった方がいいかもしれない。でも、場所がない・・・。新規の出費が18万というもちょっとね。つらい。ちなみに、Wallstreet手に入ったら2400は放出する予定。20万位で買ってくれる人がいればラッキー。そうなればソフトとメモリで10万弱の出費。これがベストなのだが・・・。

 ま、保証はなくとも無事に動いてくれればいいのだけれど・・・。万が一が怖いよね。
 そう思ってまた買い時を逃してしまって、ぐずぐずぐずぐずしています。どうしようもない俺。最近タイミングを外しすぎ。あーーーーーーーー、いやだなぁ。

 仕事の方は集中力なし。
 これ以上今の会社でキャリア積んでも仕方なし、と思っている。のれんに腕押し。俺が全て正しい事を言っているとは思っていないのだから、何か意見を言ってくれ。いい大人が催促しなければ場の空気や、人間関係を作れないと言うのも情けないと俺は思う。何かいってほしいので、主張する。主張する度に正しいようにふるまっているかに見える。自分ですらそんな風に錯覚してしまう。
 いいように人に使われるのも馬鹿らしくなってきた。自分勝手に人の仕事をいいとこだけ上澄み吸い上げないで欲しい。最近本当に会社がつまらない。仕事がつまらない。人と話をしろ。読むべき物は読め。一人で勝手に話を進めるな。そういう不手際を立場でごまかすな。大人なんだから。うがーーーーーーーーー。

 ただ俺は、印刷の事をしらない部分がまだまだある。だからそれを勉強したりするのはしたい。けど、それも弱いモチベーション。年も年だし、そろそろ次のことに動きたい。でも金がない。だから出社する。そんな感じになってきた。

 仕事って言うか、人生に張りがほしい。だから会社にチャリで出社しようとか、OS X serverかって、WebObjectsに触れたい、勉強したいとか、そういう張りが欲しい。そうでなければ、仕事にもう一張りほしいなぁ、と思っている。でも、タイミングの悪いこの頃。俺の努力が足りなかったり空回りしているのも事実。(会社では特に空回り)
 一時期めまいが出ている時があったけど、最近あれに近くなってきたので、ちょっと怖いんだよね。ストレスがまた溜まってきた。どうしようかって感じだよ。ま、水泳したりするとかなりストレス解消になるんで、それは純粋に楽しいのですがね。love スイミングアンドサッカーアンドMTB。そしてMac and Music!スガシカオのアルバムかった。結構いいですね。はまってます。

 あと、おくればせながらUAの11聞きました。よいアルバムですね。UAはフィッシュマンズが世界で一番好きなバンドだと言っていたそうですが、彼女のアルバムはフィッシュ的な匂いがします。まったりとした感じがいいです。ブラックっぽいですが、幸せな感じのするアルバムです。

 フィッシュもラストアルバムが28日にでます。即買いです。ライブです。
 それだけで、なんか、なみだが出そうですね。ラストでライブと耳に触れるだけでね・・・。


「春は新しい花を眺め、夏は昇り詰める空を仰ぎ
 秋は落ちてゆく紅を愛で、冬は消えてゆくものたちが馳せる」

 なんとなく思いついたこと。
 眺めのフィクションも書きたい。






99.9.1
野心

 クイックタイムのストリーミング放送を待つ間にこれを書いています。
 実家に帰省してK君という友達といろいろ話をしたんだけど、まあ、もうけばなしってのがあったのね。
 で、その構造を数学的に考えて、俺は理解できました。でも、気が引けたんでおれはやらなかった。落とし穴はない。でも気が引けた。なんでなんだろうかね。
 K君曰く、「頭で理解できるのに躊躇するのはもったいない」とのこと。確かにその通り。でもね、分かっていてもそういわれて納得出来なかった。何故なんだろう。それをずっと今日まで考えていた。

 そして分かったのは、自分には金儲けの野心がないってことだった。
 お金儲けに興味はないけど、文化的なこと(この日記(文化的?)とか)あるいは、技術的な探求心、あるいはアイディアを実用化するプロセス。そういう物への野心は俺にはある、と。まあ、この場合もう野心とはいわないのかも知れないけれど。
 で、K君の場合お金儲けというか、まあそれいうことよりも、チャンスにはどんどんチャレンジしていくという事に野心があるのかな、とおもった。そしてそれだけに慎重さもある。

 そういう人間的な違いなんだろうか、と思ったよ。言い訳でなく。
 人間は育ってきた環境で考え方やその基本が大きく異なる。だからこそ他人と関わる価値がある。それを吸収するためにね。
 そして、今回はいろいろ考えさせられたけど、話にはのらんでおくことにした。違ったものを持つ人間として、同じスタンスで物を共有してしまったら、なんか俺ってものに意味がない気がするんだよね。それに気乗りしないし。
 極論、お金を得ることが自分にとって、快適であるか幸せであるかというとね、俺はそうじゃないんだよね。

 とはいってもK君のいうとおり、それが俺の駄目なところなんだよね。
 だってさ、俺だって今は会社員だけど、いつかは実家かえるつもりだし、できれば有機栽培の農家で、パソコンというかインターネットとかネットワークつかって仕事したいと思ってるのね。
 でもさ、俺の場合「野菜つくること」に愛着を感じてしまうが故にね、経営者として必要なはずの「お金を得ること」という必要不可欠な部分。そういうところにまったく考えが至ってないのね。どういうラインで生産物を動かすかって事にね。
 それは絶対必要だからね。だけど「野菜をつくることに愛着を感じるのが俺だから」といってしまえば、それは明らかに自分を限定することで、必要なものを吸収しようとしてないよね。まあ俺自身そういうつもりもなかったんだけど。でも、漠然としていたのは事実。経営とかお金に対して、まったく具体的でなかった。そこを厳しい言葉でしっかり指摘されたわけ。

 これから一本立しようと考えている人間とは思えないようなお気楽さ。これはK君の持つような野心。それが俺にまったくないからであって、そういうのを改めて指摘されていろいろ真剣に考えるきっかけ、そういう自分を捕らえるきっかけになったので非常に感謝している。

 非常にまとまらないまとめだが、自分が持っている野心が分かったし、自分に足りない野心ってのも分かったし、そういう物を持っている人間というのも、目の当たりにすることができた。
 逃げといわれるかもしれないが、俺はそういうことで、俺なりに頑張ろうと思う。別にK君もこの金儲けの話に乗れといっているわけではなくて、「チャンスの前髪をつかもうぜ!」と言ってくれているわけだし・・・。

 などとグチグチ俺が書いているのは、まあ彼に言い返す言葉も亡かったからなのですけれどね・・・。