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98.5.15
二つの文章

 前回書いた「虚数」だけれど、あれって人に読んでもらう文章じゃあないよね。ちょっと反省。本当は削除しようかなぁと思ったんだけれど、失敗した有様も載せておくのも又ありかなぁ、と思って載せています。

 読みづらい文章ではあるけれど、これもそれなりに意味はある。私が思うに文章には二種類あるのです。

 一つは頭にひらめいたインスピレーションをとにかく言葉にしていく文章。とにかくスピードが大事で、思ったことをどんどん活字にしていく作業。これを行うことによって自分が何を考えていたか客観的にとらえることができます。
 この作業を行った後、もう一度同じテーマで文章を書いてみると、ぐっと字数がへってくるはずです。とにかく書き散らした結果、どのようなことば、表現が、どれだけ、どういった順序で必要かがつかめるからです。
 これは話すときにも同様な効果があります。インスピレーション沸き立つままに話す時の迫力は失せますが、それよりも言葉数が少なくなるかわりに、コンパクトで汎用的な表現になります。
 もう一つの文章とはまさにこれです。人に伝えるための文章。

 前回は一応、後者を書くつもりで書いたんですけれど、書き終わって前者だったので愕然としました。
 「虚数」についてはもうちょっと整理がついたらまたかこうかなぁ、と思っています。
 






98.5.11
虚数




 「自己同一性」という言葉があるが、それを俺なりに簡単な言葉にしてしまうと、それは「人間は理想と現実で成り立っている」ということだ。そしてほとんどの場合、理想と現実は一致しない。どうしても足りない自分がいる、心苦しい現実にほとんどの人が直面していると思う。もちろん僕もそうだ。

 この隙間が埋まれば満たされる。そう思って僕らは日々を求めているのだろうが、その隙間をどうやって埋めていくのだろうか。現実を見据えれば見据えるほど、足りないことが分かる。でも、何が足りない?このただっぴろい隙間に何をうめていったら良いのだろうか?

 もろくはかないものが多いからこそ、そして苦労は報われてこそと思うからこそ、できるだけ不変なものを隙間に入れ、自分の理想と現実の間を満たし、心を安らげることができたら・・・。

 人は、この不安定で底なしの隙間に、形のない、大きさのない、壊れない便利な何かを埋めようとしているのではないか。それは数学でいう虚数のようなものだと思う。

 たとえばそれが自然の摂理だという人もいるだろう。あるいはそれは科学だという人もいるだろう。あるいは、それは宗教だという人もいるだろう。とにかく自分が教えられたもの、あるいは自分が都合のいいように解釈できるもの。だれでもそんな虚数を一つは持っているのではないだろうか。

 そもそも数学での虚数とは「つじつまあわせ」のため使われる。現実にはない、あるいは方程式では規定できない計算上のつじつま合わせを、一つの記号に押し込んでいるのだ。こういうものは数えられない。理屈ではないのだ。

 その理屈ではないつじつま合わせが、理屈でがんじがらめになった心の最後のバランスをうまくとっているんだと思う。僕の虚数はなんだろうかと言葉にはうまくできないが、確かにそんなものは僕の中にもある。

 ただ、それも使いようだ。そういったつじつま合わせでどういった風に自分を成り立たせていくのか、というのが問題である。

 自分の中に虚数があると知ってびっくりし、それに酔ってしまってもしょうがないし、何が隙間をうめていようとも、結局評価されるのはその人の行動である。それは普段の態度からなり、普段の心持ちからなり、その人の現実であり、理想であり、それの間を埋める何か、つまり虚数が呼び起こしているのだ。

 何かいているのかわかんなくなってきたけど、この文章を読んで感触だけでもつかんでいただけたらと思う。

 とにかく、その人を奮い立たせもすれば、卑屈にもさせてしまう理屈でないもの、それが現実の自分と理想の間を、なんとかバランスをとるために埋めているのだろう。

 それを見つけられる事も大事だし、それにおぼれないことも大事だ。
 
 とにかくそれは虚数のようなもので、理屈ではない。
 甘えの色にも、自戒の色にもすることができるのである。
 その人の決定次第で。
 あるいは、無意識の決定の中で。  


「酒が人間をだめにするのではない。酒は人間が駄目なものだと証明しているのだ」
 尊敬する立川談志師匠の一筆






98.5.8
iMac!




 これほどネットワークが発達した時代に、よくこんなビッグな情報が漏れなかったもんだ。でも、漏れなくて良かった。この興奮は、何にも変えられないからな。
 他のサイトで語り尽くされているだろうが、とにかくこいつは新しいマシンだ。若く、ミスもするだろうが、新しい概念と力を持ったマシンだ。
 従来のポートがない?スカジーがない?
 そういった事への不満を捨てることから始めよう。USBポートにはスキャナもプリンタも取り付け可能になるらしいしから、それを見つめて待っていればいい。あるいは、すでにwin環境ではこうした周辺機器もあるらしいから、それが利用可能になる。
 なによりUSBポートを普及させるのが、このiMacだ。

 デザインについては、とってもかわいらしく、おもしろい。
 四方から見ると角が目立つのに、その中間が丸い。正面は結構りりしいのに、他は愛らしい。
 所有する喜び、あるいは生活に必要なデザイン。
 技術を証明するイコールのデザイン。

 夢を最近見た?
 しばらくは僕はこいつでいくらでも夢を見れそうだ。

 jobsのポジティブな態度と行動に、今は脱帽です。

【参考リンク】
 ・
新一体型マック「iMac」
 ・
これがiMacだ
 ・
iMac発表会リポート  






98.5.5
wondering future man

 未来という人間がいる。
 彼は、どうしようかと迷っている。
 背中を押してあげるのは、僕らだ。






98.5.2
水は狂うのだろうか?

 いやな日が続くと、誰かに当たりたくなってしまう。守ってくれる人にこそなお当たりたくなる。傷つけたくなる。そしてそんな悪行のすべてを許してほしいと思っている。
 甘えである。

 ただ、実際にはそうはしたくないと思っている。そうしてしまう自分は寂しい。そしてやはり大事な人になど当たることはできない。だからそんな時、むかついた気分で物に当たる。叩く、揺らす、ぶっ壊す。
 とにかく、感情のない物にやつあたるのだ。

 先日も少しむかついたことがあって、少し鋭い気分で、そしていらいらの棘が心のあちらこちらから突き出されたまま、家にたどり着いた。
 玄関をあけて、靴を半分脱いだまま冷蔵庫を開けて水をがぶのみした。ぐいぐいと飲み込むうちに少し気管の方に水が入って、むせてしまった。

 「なんだ、このやろう」

 と、思わずむかついてしまったのだが、今思い出して考えるのだ。
 水にだって感情があるかもしれない、と。

 たかだかペットボトルに入った水だが、揺れる度に喜んでいるのかもしれない。怒っているのかもしれない。冷蔵庫に入れば「寒いぞこのやろう」とか思っているのかもしれないし、「冷たくて気持ちいい」と思うのかもしれない。

 自然に怒る雨や嵐、川の洪水。実はあれは年に何回かの水たち祭りなのかもしれない。彼らにとっての非日常の中で、水達は狂っているのかもしれない。
 流れが川を作り、土を削る。もしかしたら水が月をそそのかして、引力をつかって波を引き起こしているのかもしれない。

 水に感情があるのか?
 それは誰にもわからない。
 僕が他人になれないように、僕らは水にはなれないのだ。

 ただ、僕が人を思うとき、おぼろげに他人を想像し、他人の気持ちになろうとする。理解しようとする。僕らは、おぼろげになら他人になれる。

 そうやって水を想像する。水の気持ちになろうとする。理解しようとする。おぼろげに水になってみて・・・
 水に感情はあるのかもしれない、とも思える。

 水は狂うのだろうか?と考えることができる。






98.4.28
Radiobox,TVbox

 僕の会社の人は知っていることなのだが、僕の部屋にはテレビがない。もう5年もない。で家にいて何をしているのかというとギターをつま弾いたり、あるいはマックに向かって何事かをしていたり、本を読んだり、なんとなく時を過ごしている。そしてその間常にかかっているもの、それはラジオだ。
 テレビがなくなってからの不便といえば、競馬、サッカーが見れないことだ。競馬はまだいい。学生時代にはよく府中競馬場に通ってはレースを見ていたので、ラジオの実況でだいたいイメージできる。あるいは今となっては、ラジオの実況からイメージした図と、実際の競馬の絵とのずれを楽しんだりもしているので、時間がたったレースを改めて見直す楽しみもでてきた。
 だが、サッカーはね。ちょっと実際に見に行った経験がすくないので、ずれに困ってしまっています。ラジオ実況だけではイメージしきれないし、イメージが追いつかない。ラジオも楽しいけれど、テレビで見た方がスピードもテクニックも堪能できる。
 ただ、ラジオでサッカーを聞くと、その日の主役が誰なのかはすぐわかる。だって一番名前が呼ばれるからね。ワールドカップ予選は、秋田と中田がそれでした。

 で、逆に言うと、それ以外はほとんど困ったことないですね。テレビがないからといって。で、もっというと、それ以外の番組は僕にとって面白くはないです。面白くはない、とはいいすぎかもしれないですけれど、どっちでもいいです。ドラマは昔から見ないし。
 テレビは見だしてもう10年以上たつけれど、ラジオは聞き出して5年。だからラジオが面白いのかもしれません。が、ラジオが何がいいって、じゃまをしないところです。
 生活の事、洗濯したり、炊事したり、掃除したりしている間、テレビは手を止めたり集中力を奪っていくけれど、ラジオはそれをしません。テレビがなくなって気がついたこと。それは毎日あまり大したことしていなかったなぁ、ということです。つまり、結構な時間テレビに向かっていたのですね。
 今思うと何をしていたのか・・・。テレビを見ること事態が悪いとは思いませんが、それにしてもテレビを見過ぎていたなぁ、と。
 それにテレビって「みせつける」番組が多いでしょ?それがね。ラジオのさりげなさの方が、僕は好きなんですね。
 ラジオは知らない音楽がいつでてくるかも分からないし、それらが空気にとけ込んで、音になじんで注がれてくるじゃないですか。いつまでも続くような生活の中に。
 引き立ててくれると思うんですよ。ラジオの方が。

 仕事場ともガレージともつかないような道端ぎりぎりのところで、油まみれの作業服の横に、かの人を眺めるようなラジオ。
 商店街のスピーカーから、万年床になってしまったいつもの窓口の日陰で客を待つ彼に届くラジオ。
 海を向いている窓際から、その奥からじっとしているラジオ。

 あの人の生活があることを知らせているラジオに、必要以上の愛着を感じてしまう僕ですね。

 夫婦の関わりとは球と球の交わりと同じ。
 「一点の交わり。他はふれあわない。」
 堺正章のことば。ここにくるまで10年かかったそうです・・・。






98.4.21
ばれた

 せわしない有給をおわって会社に行ったらこのページがあの二人組にばれていた。あの二人組とは・・・パフィー!じゃないよ。
 今日は、おもてなしする物もあまりない。
 体が疲れたのでそのまま寝る。


 そらもよう http://www.voyager.co.jp/aozora/soramoyou3.html
 1998年2月6日
 「やがていつか、自分は何事かを成し遂げる。何者かになるんだ」
 そんな肩ひじ張った思いが、胃袋の裏あたりをのぞき込んでも見つからなくなったのは、いつからだろう。






98.4.19
金について

 世の中を動かしているものはといったら、せちがらいですけれど、金。
 でもこれはこれで、いい点も悪い点も含んでいます。金っていったい何なんでしょう。
 
 人間には様々な欲があります。人間に文化がなかった頃には「性欲、食欲、睡眠欲」が、人間の主だった欲でした。が、社会が文明化されるに連れ、「金欲」というのも欲の仲間入りをするようになりました。
 これは、金、つまりは貨幣経済が社会的に常識になってきたことを象徴しています。

 お金がなぜこんなに普及したのかと言えば、当然便利だからです。お金はいつでもどこにでも持ち歩くことができます(移動の自由)。また、食料などに比べて劣化しません(保存が可能)。そしてお金を数える場合、純粋に数で数えることができます。お金には「質」は存在しないのです。二つの100円玉は、どちらも100円以外の何者でもありません。でも、二本の大根はどちらも同じ大根ではないはずです。大根には違いありませんが、産地も違えば、味も違うし、長さや重さも異なるはずです。
 お金に、「質」が存在しないこと。これはとっても重要なことです。質が存在しないが故に、だれでもお金を使うことができるようになりました(質の不在)。

 歴史的にみて、お金が流通する前は、物々交換が流通の手だてでした。しかしこれでは不便が多い。食料はいつでもとれるわけではないし、くさってしまう。そして何より、それに対する価値観が様々。ある人と大根1本をさんま1本と交換できたからといって、必ずしも他の人とそうなるわけではない。いちいちめんどうなのです。

 そういった面倒から解放してくれたのが、金の存在です。とにかく一度すべての仕事や物を「金」という単位に置き換える。そうすることによって、様々なやり取りをスムーズにしたことは、貨幣経済の最大の利点です。これによって物の流通のスピードがアップし、社会の文明化はスピードアップされたわけです。

 ただし、金で買える物は「商品」であることに注意してください。金で買える物は「商品」だけなのです。

 次に金が与えた弊害について考えてみます。
 すべての商品(仕事や物)が一度、金に集約された結果、人間の意識が「物」から「金」に変化してきました。金が手に入ればなんでも手にはいると入った考え方は、金に集約されるシステムが与えた弊害です。
 生産能力、処理能力がなくても、金があれば結果を得られる。確かに金はそれを可能にしてくれますが、金があれば生産能力や処理能力を会得できるわけではありません。あくまで「商品」である結果を買っただけです。それを勘違いして金があれば万能だと思う人が結構いたりするのが不思議でありません。

 世の中のすべての物が「商品」であるなら、私も人生を金を得ることだけに費やしましょう。しかし、世の中のものすべてが商品であるわけではありません。世の中には価値ある非売品が沢山あります。それらは、商品ではないので金では買えません。
 そして商品とそうでないものを振り分けているのは何か。それは人間の意志です。精神です。人間が好んだ物だけを商品として市場にほおります。いくらほしくても市場にない物はお金では得ることができないのです。
 ちなみに精神の世界というのは、数でなく、「質」が支配する世界です。どういった考察をしているのか、が問われる世界です。金の世界と対局をなしているといって、問題ないと思います。

 私たちの社会は、人間の心と、金による物の流通で成り立っています。ですから、金にこだわるというのはいい意識だと思います。が、金だけで世の中を考えようと言うのはどう考えても寂しい事ですし、不可能だと思います。
 そして何より、商品を買うことだけに終わらずに、少しでもいい商品を生み出すことのできる人間が、世の中を楽しくできるのだとも思っています。

 お金だだけがすべてのあなた。(今これを読んでくれているあなたはどうでしょうか?気になります。余談でした。)もし市場にあなたがほしい物がなかったら?それができるまで気長に待っているんですか?それじゃあ、金に縛られた寂しい人生だと思いませんか?
 ほしい物が市場になかったら、あなたがその手で作ればいいじゃないですか。できないかもしれないけれど、やってみなければわからない。もし物ができたなら、あなたにとってそれは幸せなことだし、あなたにそれを商品にする気があってもし販売がうまくいくなら、あなたが望んでいた金を手にすることもできます。
 金を集めるだけの人生に終わらなければ、逆にお金を得ることができるかもしれませんよ。

 なんにせよ、すべての物がそうですが、良い点と悪い点があります。ただこれだけ勢いよく貨幣経済が幅を利かせてくると、金の利点にのみ目がいってしまった盲目の人がおおくなってしまってがっかりしてしまいます。また、そういう考え方が社会の常識となって人々の自由な意志を縛っているのにも、非常に寂しさを感じます。
 確かに、私にも金欲はあります。が、それだけではありませんから。

 そして、何よりお金を質の面から見たら、ただの紙と金属ですよ?

 あとね、経験を金に変換するのって、難しいなぁ、正しいことかなぁ、とも思っています。がこれに対しては考えていても、語る言葉がありませんので今は書きません。

 http://cnet.sphere.ne.jp/News/1998/Item/Forecast98/ss04.html
 ネットワークに対するラルフネーダーの言葉






98.4.15
年と経験

 かえってきてすぐに寝てしまったので、今の時間になって(2:26 AM)眠れません。寝酒ではないのですが、気を静めるために少し物をかこうかと思いました。
 年と経験って必ずしも比例している物ではないと思います。年上を尊敬しなさいと言うのは社会の常識ですし、私自身リスペクトしている年上の方は沢山しますが、社会にでるようになって、ますます年は関係ないなと思っているのも又事実です。

 年齢が高いほど過ごしてきた時間も長いので、数量的に時間が多くなり、同時に経験の量も多くなると言うのはわかります。ただ、人それぞれ違うように、経験している内容やジャンルは異なるため、経験を量だけで語るのは間違っていると思うのです。
 つまり、私より年輩、年下の彼らとは、経験の内容が違います。

 量だけで争うのなら年上はリスペクトするべきだとは思いますが、経験の何が大事かといったら質です。そういう意味では、年齢の上下は経験とは関係ありません。
「年下のいうことなんか聞けるか」という人がいますが、(あるいは私も先天的にそう思ってしまうことがありますが)、それははずべき行為だと思います。

 また、経験で大事なのは質だ、といいました。質という物もやはり時間と必ずしも比例する物ではありません。その人の意識の持ち方や行動が、同じ時間内でも経験の質を濃くします。密度の高い時間を過ごした人とそうでない人がいたとして、同じ年齢だとしても、その経験が同じである、あるいは数量的に、質的に同じだと語ることはできません。
 (ただし、何をもって密度の高い時間とするのか、あるいはどのような意識の持ち方がベストであるのか、という問題はあります。また、そもそもベストだとか、正解といった物は存在しないようにも思います。が、ここでは単純化するために、そのことは置いてしまいます。)

 経験を積む、ということは返せばその人の人格が問われているのです。どのような考えを持ち、どのような環境を選び、そしてどのような行動をして、どのような結果を得て、どのような反省をして、どのような良積があったのか、どのような悪積があったのか。どのようなプロセスで日々を過ごしているのか、その元になる考え方とはなんなのか。
 一口に経験といってもそれをなす要素はいくらでもあるわけで、だからこそ他人の経験には非常に興味があります。でも、ここまで考えてしまっている以上は、誰彼を簡単にリスペクトする事もできません(笑)。

 話の筋がおかしくなってきたので一つ提示しますが、「年輩の言う事はきくものだ」と一点張りで、とにかく自分の経験を絶対として錦の御旗よろしく人に押しつける人、私はその経験も、その人も信用しません。
 奥深い思慮のもとそういった発言をしているのかもしれませんが、そういう不躾な性格が信用できないし、そういう性格だからこそその経験は反面教師にはなってもお手本にはならないと思うからです。
 たしかに経験を話に聞いてみなければ、参考になるかどうかわかりません。が、だいたいにおいてそういう考え方の人は伝えることに意識が浅く、自分の言葉だけで話して、他人に伝わりにくい話し方をするので、結局参考にならない事が多いです。
 これは私の経験の蓄積なのですが(笑)
 こういう人たちは言葉に気を使わないので大事な言葉を何度もはしょっては話の無理な近道をしてしまうのです。そのため、考えたことや実際の行動の課程が伝わりづらく、理解に苦しむ話になります。
 本当に他人に理解してほしいのかな?と思わずにいられない表現になるのです。が、そもそも理解してほしいと言うよりは、もっと自信があるんでしょう。ですから気配りのない表現になるのだと私は分析しています。だから、必要があるときはこういう感じの人にはかなりの質問をします。とにかくこちらから聞くことで、足りない表現を補ってもらうわけです。

 経験とはなんなのか、ということはなかなか難しい命題です。ただ、他人の経験は自分以外の経験であるということは事実です。異なる物なのです。そして、それは年齢とは関係のないところの物です。
 ですから、他人の経験は尊重すべきだと思いますし(自分は自分以外には絶対になれないのだから)真剣に年を過ごしてきた人の「年寄りのいうことはきくものだ」という部分には大賛成です。
 が、だからといってすべての人の経験を鵜呑みにしていいと言うことはありません。良いものも悪いものも流れ込んでくるのが世の中であり、そこでは分別することが必要とされていると思います。
 つまりは分別する主体である自分が問われている訳です。
 そして、自分を育て(てくれ)る他者も存在しています。
 この循環はえんえんと続いていますねぇ・・・。






98.4.14
季節

 昨晩雨が降ったんですけれど、朝方は生暖かい風が吹いて曇っていました。
 歩いているとあちらこちらに散った桜が湿って、道の脇に固まっていました。見上げると桜の木は若い緑を身にまとい始めています。春はあっという間に中盤を迎えたようです。
 季節はなかなか終りを教えてくれませんからね。小さな変化を見つけながら、あれこれ季節の終わりがいつおとずれたのか想像するのも、悪くないと思います。

 季節は静かにしか語りませんねぇ。







98.4.13
上を向く病



 目的意識のある人、常に上昇志向である人で本当に真剣な人ほど、感情が様々で取っつきにくかったりしますが、それってこんな感じなのかなぁ、とおもって図にしてみました。っていうか、これが私です、って感じかも。
 積み上げが大事だからこそ、日々や環境に気を使う一方で、目標との距離感を感じるからこそ、いらだち、自分をいじめ、非常識な子供っぽい振る舞いをしてみたりするのだと思います。っていうか、私はします。(無茶な馬券をかったり、必要以上に買い物をしたり、お金を使ったりするのも、こういったことがトラウマ的というか、水面下の理由としてこういう思考の原理があるのだと思います。)
 なんにせよ、かんがえだしたらきりがありませんが、目標をかなえるためには常に考え続けるしかなく、常に考え続ければこそ、そういった振る舞いが解消されると同時に、あらたなストレスが現れ、あらたな幼児退行現象があらわれるような気がします。
 きりがないっすね。






98.4.11
春のせい?

 今日は気持ちのいい一日でしたね。
 私は実家から荷物が届く予定だったので、一日家にいました。荷物がきてからはちょこっと外に買い物にもでましたけれども、基本的に部屋の掃除をしていました。いい一日でした。明日は、馬券を買いにいく予定です。
 
 ところで、こういう一日はみんな外に導き出されてしまいますけれど、決してそういう過ごし方ばかりでもないようですね
 確かに、若ににーちゃんはいい日を浴びて日焼けをしていましたけれども、日差しをさけて、車庫のワゴンの中で昼寝をしている人も見かけました。差し込む日差しが気持ちいい一日ですけれども、こんな日に思い思いに休日を、一日を過ごしているみなさんの様子は、なかなかにすがすがしくて幸せなものです。

 春も僅かですからね。
 四季は忙しく来ては去っていきますからね。過ごしたいように日々を過ごせるのは幸せですね。
 変化のある季節が身の回りにある日本は、なかなかにいい国だなぁ、と思ってしまいました。
 
 春のせいですかね。






98.4.8
私生活?

 私生活の時間って、どれ位あるんですかね、みなさん。
 私は大体土日は完全に休めるので、まあまあ自分の時間があるほうかもしれません。ただ、残業がね。印刷業は残業が不定期で、時にはその日をこえてしまう事も多いですから・・・。一概に恵まれているとも言えないかもしれませんね。
 ただね、思うんですよ。
 
 「私生活で仕事のストレスを解消しよう!」
 
 って、おかしくないですか?
 私も実際そうなので、なんとも言えないのですが、そもそもストレスのたまるような仕事の進め方に問題がある気がするのですが、それはやっぱり理想論ですかねぇ。
 一口にストレスといっても、同じ事象でも人によっては感じ方が様々なようにストレスも様々。沢山の人が動いている会社、あるいは仕事の流れのなかで、すべての人がストレスを感じなような環境、ってのは難しいかも知れません。
 でも、ストレスって大体、人に仕事を(特に理不尽な仕事を)させられていると思う時(あるいはその感情の積上げ)だと思うんですよね。それくらいなら、工夫次第で、変化次第でなんともなる気がするんですが・・・。なかなかやらないんですよね。そういう事にアイディアをだしたり、知恵を使ったりする事を。我こそが全てって感じで。
 社会主義じゃないんだけれど、仕事をきちんと分配するような管理の仕方ができれば、実際に仕事のストレスを少なくする事は可能だと思うんですけれど、どうなんでしょうか?
 仕事が均等に配分されれば、一人当りの作業時間が均等化されるはずなので、無駄な、不当な残業時間が減ります。それにより身体的な疲れも減ります。また、同じ仕事をやっているという心理作用が、不必要なストレスを産ませないとも思います。
 でも、実際はそれぞれの仕事の分配が不等・・・。
 結局、管理者の優劣がそのまま多大な作業者のストレスを産んでしまうんですよね。これが現実だと思います。極端に言うと、昨今のストレスってそういう人々に対する不満ですからね(笑)。
 近頃、私はファイルメーカーを少しづつ使っているのですが、こういうツールを使ってアナログでは不可能なくらいの作業管理は可能だと思います。でも、使わないんですよね。必要な人ほど。
 「これからは、デジタルの時代だ!」
 と言っている癖に、自分は何も変わろうとしないんだから困ったものです。
 アナログな人でもいいんです。できがよければ。
 でも、問題の人たちは、デジタルだろうがアナログだろが、出来が悪いから困るんです。そしてそれに気付かないし。
 
 たまりたまったストレスが仕事に体調不良となって現れた時、こういう人たちは必ずと言っていいほど、こう言います。

 「私生活の過ごし方がまずいんじゃないのかい?」

 と。

 そうじゃなくて、お前の仕事時間が、その内容がまずいからここまでひどいんじゃないのかい?
 
 と、言ってやりたくなりますよね。
 でも、会社だからこそ言えないんです。生活の足場なだけに。くーーー。
 こうして、今日も社会の足場の仕事場にまたひとつ悪循環がまわっていくという・・・。
 んー。







98.4.2
midnightspoon 2

以前書いたエッセイです。別の目的で書いていました。  
 
 
[netscape's blue]  

 生活は孤独で怠惰なものだ。仕事は体を追い詰めることばかりを強いて、時間と体力を奪っていく。それだけならまだいい。すり減らされた結果、素敵なできごとから今日もまたひとつ、僕らは遠くなってしまっている。    

 生活は仕事なしでは成り立たない。金の事はもちろんだが、金以外の部分でも、激しく僕らを成り立たせていたりする。しかし、仕事が生活ではない。仕事だけしていれば僕らがみたされるわけではないし、仕事を取ったら何も残らないということはない。
 
 暮らしていく、ということはそれ事体、ひとりでは成り立たない。人間が生きるということは、そのまま他人との関わりあいだ。人間だから都合のいい相手とばかり会いたいし、嫌いな人間とは会いたくもないもので、でも、それじゃあ余りにも寂しいとも思っている。でも、仕事が終われば、やはり仲間と会いたい。そしてできるなら、好きな時、好きな仲間と、好きなことをしたいものだ。  
 

 でも、現実はその思いを満たしてはくれない。遅くまで続く仕事。ぐずぐずと長引く会議。待ち時間ばかりの電車、バス。進まない車・・・。私だけならまだしも、仲間がお互いにそんな感じになってしまい、だんだんと会う機会をなくし、遊ぶ機会をなくしていく。そのうち、時間を作る苦労もしなくなり、遊びを楽しむゆとりもなくなっていく。そして最後には愚痴ばかりが残る。    

 仲間だけでなく、人とのつながりを段々に切り離していく僕らの暮らし。気付いているのか、気付いていないのか分からないが、その空しさを癒すように、延々とnetscapeに向かっている。そんな自分に気付くことがある。    

 言葉のない暮らしになれてしまえば、いつしか寂しさも当たり前になる。ひとりの部屋に響く言葉ほど空しいものもない。その空しさを避けるように、ブラウザの文字に耳を傾け、キーボードを叩いて言葉を喋っている自分がいることがある。    

 沢山のすばらしい言葉に出会う喜びのすぐそばに、本当に言葉を喋り、相手を目の前に延々と話し込めない寂しさも待っている。自由な時間を諦め、いつのまにかそれを生活の中に畳み込んでしまう僕がいたり、あなたがいたりする。    

 僕らはいつのまにこんな難しい生活を受け入れてしまったのだろうか。こんな理不尽な仕事の横暴をいつから許してしまったのだろうか。もはやその流れに逆らうことができないからこそ、あらためて思う。僕らはこれからどうやって暮らすべきか。    

 今日も多分、沢山の人がモニタの上の誰かの言葉を聞いていることだろう。逆に、家族や仲間の中で幸せな窮屈さを味わっている人もいるだろう。どちらが、ということではないのだが、何をもっても買えることのない仲間の意味の大きさを確認するにつれ、モニタを覗くばかりの生活の悲しさも思い知ることがある。    

98.1.6 7:27 AM

  







98.4.1

このページは

 とりあえず、パーソナルページとして「emptyhouse」を開設しました。といってもしばらくは静かにやりますし、多分ずっと静かなままでしょう。なんたってemptyですから。
 空っぽのお家に、少しづつ自分の色んなものを入れていこうと思っています。
 大事な家に、大事なものを入れていこうかと・・・。