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98.11.31
止まり木のない生活
僕等の毎日が息つく暇のないままだったら、苦しいだけだ。
例えば行きつけの飯屋だったり、聞き慣れた音楽だったり、たまに見上げる夜空だったり。誰もが何かしら安らぎを、少しはポケットに非常食を忍ばせるように持っている。
そして鳥のことを思い出してみる。彼らは止まり木を持っている。鳥はそれぞれが愛する枝木を持っている。そこで一息ついたら、また羽をばたつかせる。風にのったりする。
今度は木のことを考える。木はそこにある。木がそこにいるのは生まれながらの必然だ。その必然に鳥達があつまってくる。大分騒がしいけれども、にぎやかな方が楽しいに違いない。
木の必然がいつのまにか鳥達をやすませている。
僕も鳥のように休みたいし、
また木のような必然を背負い続けたいとも思う。
自分の仕事に安らいでくれる人がいる。
とりあえずはそういう狭い範囲を狙ってみたいし、頑張っていきたい。
でも、もっと大きな意味で自分があれるように・・・。
久々の文章ですが、かけない。
上の文章も、何度も同じ事かいているのが、書いてるそばからむかつき君です。
98.11.26
仕事の才能
仕事の才能という言葉がふと頭の中をよぎったので。
仕事の才能とは何か。一言でいって「今、自分がいるべき場所がわかるということ」だと思う。
ん、分かりづらいか。
常に全体の仕事の中で、自分をベストのポジションにもっていく。それが仕事にとってはもっとも大事なことだと思っています。自分の居場所を的確にするって事です。
居場所ってね、正しい居場所を探す時には、団体の中の一人として振る舞えることが大事です。その時には全体をくまなく探せる目が必要なんです。
そして、仕事がないときには、「なければ創る」というクリエイションが大事になります。これは個人の想像能力が問題になってきます。
つまり、人間の「個」の部分も「全体」の部分も正しく持ち合わせることがポイントだと思うんです。
こういう資質があれば、作業者としてもリーダーとしてもやっていけるのではないでしょうか。というか、技術云々が最初は誰でも足りないのものですが、それを補える人というのはこういう人だと思っています。
人には人の世界がある。
(浅草で菊池さんがいってました。)
98.11.25
黒い顔
電車、夜10時頃の車内に、日焼けした黒い顔が酔っぱらってドス赤くなっているのを見つけた。
その顔が働く男の勲章なのか、汚れた大人の垢なのか、よく分からなかった。
僕は多分、青白い。
98.11.22
心の渇き
僕等の心は、乾いたり、涙に濡れたりする。
それを潤してくれたり、ふき取ってくれたりするのは、きっと結婚とか友達とか恋人とか家族なのだと思う。
少なくとも、前述したような関係が、そういう風に振る舞えるような自分でありたい。
まちがっても心の渇きをいやすものは酒の湿り気ではないし、ドライに突き放すことが心の涙を拭うのではないと思う。
要は、如何にそれを彼らが使うかだ。
その時に、初めて酒や態度が艶をましてくる、と思う。
HIDEのラストシングルは、もしかしたら20世紀を代表するくらいのクラスの歌かもしれない。
98.11.20
嘘はいいが、騙すことはいけない
「嘘もつき続けると、真実になるんだよ」
と、酒の席で上司が喋ってきたことがある。
俺こういうのって、くそったれで頭くる。馬鹿って感じ。
嘘をつくこと。それ自体は俺は別にいいと思う。例えば、
「カラスが黄色い。」
っていうのは、明らかに嘘なんだけど、べつにいい。「カラスは黄色」ふーん。ってかんじ。信じようが疑おうがそこで終わりじゃない。だから別にいい。
けどね、嘘を使って人を騙すのは良くないと思う。例えば、順番待ちをしているとき、前の人に
「この列は、○×の順番待ちじゃありませんよね?」
といってその人を列から外そうとするのはダメだ。なぜかって?そういう嘘をつくことによって、嘘をついた人間が不当に得するからだ。
分かってもらえましたか?前者の嘘は不当に得しないけれど、後者のそれは違うんです。
結局、嘘はどう使われるかによってその価値がきまるんです。ですから嘘は一概に悪いとは言えないんです。それよりも、嘘を使って、あるいは他のことに使用して騙すことの方が、絶対にいけない。そいういことは、結局一時の得があったとしても最終的に自分の人生を汚すだけだと思うので、絶対にしたくないです。
で、何故「嘘もつき続けると、真実になるんだよ」という発言が嫌なのか。
だってさ、こんなもん自分の罪悪感に対する言い訳以外のなにものでもないじゃないですか。嘘を騙すことに使用して不当に得をした。けれどそういう得をしつつも、心の罪悪感がうずく。それをなんとかしたからこういう発言が出てるんだもん。
「俺は嘘をついて騙して不当に得したけれど、でも嘘もつき続ければ本当になる。だから嘘をついてもいいし、騙すことは今罪悪感がうずいても悪い事じゃないんだ。」
そういう、悲しい言い訳にしか、僕には聞こえないんですよ。不当に得して、しかも罪悪感から逃れたいなんて、虫の良すぎる話です。
嘘もつき続けると、真実になるということについては、確かにそうかもしれない。というか、「嘘をついた」という真実は残っていくだろうとは思う。けれど嘘が、例えば「カラスが黄色い」が本当になることはないはずだし、そういう次元では、嘘はどこまで行っても嘘なんです。伝達する手段としては、確実に事実を伝えてはいないわけです。だからやっぱり、だいたいにおいて嘘は嘘。
ま、そんなことよりもね、酒の席で「嘘もつき続けると、真実になるんだよ」という嘘をつかなければどうにもならないとか、そういうことを自慢げに話してしまうような、そういう人間性だとか、あるいはもう止まることがないだろう嘘の循環。
その方が、よっぽど悲しい。
最近は残業で遅くって文章が書けませんでした。ですので、一気に三つほど書かせていただきました。
感想などは、mailto:taka0205@fa2.so-net.or.jpまで。よかったら。
98.11.19
7割の教育
教育指導要領が改訂されたんだっけ?
なんだかもっとゆとりを持てる教育をめざそうってことでらしい。で、教育すべき内容量を、現在の7割程度まで削減したみたいですね。これにはいろいろ考えさせられる。
自分の教育課程を振り返ってみて、そもそも勉強とは不効率なものだと思う。身に付くものとはざるに残った水滴のようなものだと思っている。それくらい不効率な中で得るものだと思うから、安易に勉強量を減らすとますますまずいのではないだろうか、と思う。
しかし逆に言うとその効率の悪さを少しでも克服しようというねらいが有るのかもしれない。ざる程度にしか残らないものを、もう少し効率よく残したい、と。
つまり、勉強とは量の前にまずやり方の問題があるということ。やり方を変えずに勉強量を減らすのは危険だと思う。でも間違いなく時間の余裕は生まれるわけだから、教員は空いたその時間で、如何にしてやり方を考察できるのだろうか。やり方を変えるための、どのような経験を積めるのだろうか。そこが問題だったりもすると思う。
あと、時間的なゆとりができて子供達が遊びにいったりできるのは、いいと思う。でもそれをうけ入れるだけの社会って今あるのかな。でも、バブルの頃とも今は違うしね。じっくり家族で話しあたり、遠くへいったり、ゆっくり近くを見たりできたりするのかもね。でも、どっちにしても「地域」という受け皿がなくなってしまったのはいたいかも。(にしても地域ってのは、よく言えば面倒見がいいし、悪くいえばお節介でなかなかに難しいね。基本的には好意のものだけれど)
最後に一つだけ。色々な理由が有るにせよ、7割に教育量を減らしたのって、結局勉強が苦痛だってことを暗にいっている気がする。でも、まあたしかにそうだとしても、それだけではないと思うんですよ。勉強って。結局前述したようにやり方がまずかったから、「苦痛」の側面が大きくなってしまったのではないのかなぁ。だとしたら勉強量を減らすので逃げでしかないよね。
あと、大学受験の問題。おれは大学を出て思うのは、もっと勉強できる環境が欲しかったということ。まあ自分でそういうものを創らなければいけないのだから、いいわけに聞こえるかもしれないけれど、でも、勉強の奥深さを気づかせてくれるような授業は皆無だったし、結局教授は自分の給料のための授業をしていたと思うし、知識のプロではあっても、教育のプロでは決してなかった。
勉強をすすんでするためには、大分効率の悪いカリキュラムであった、と感想をいっておきます。
(ちなみに、私は帝京大学文学部の出身です。)
参考:林檎の木の下で
98.11.18
いい時代
不況不況ということで、ボーナスのいく先が気になるこの頃。
冬本番を目の前にして、空気が段々と澄んでとぎすまされていく。
会社の近くの近所の会社が倒産。「管財人」の見慣れぬ張り紙をみて、初めて不況を意識したことを知る。
不況じゃなかったあのころ。俺は体験していないあのバブルの時代。あれは「お金を沢山如何にして稼ぐか」ということだった。今、「お金を如何にして稼ぐか」というのがみんなの問題だ。
あのころは当たり前だったことが、今もっとも考えなければならないことなのである。
職場の近くにちょっと大きめのファミリーマートができた。立ち読み王の俺はそこにぶらりと足を
運ぶのだが、ちょっと雰囲気が違う。まるで一昔前のスーパーなのだ。店員みんなが一緒に声を出すし、名ばかりでないしっかりとしたリーダーシップを取る「店長」が忙しく目を配っている。私としては非常に印象がいい。
この厳しい時期に職替えをするにあたり、如何にしてお金を稼ぐか、つまり仕事の本質とは何であるかを考え抜いた結果なのだろう。お客様を丁寧にもてなし、なにかあったらすぐに動いて指示を出せる。そういう必要を仕事に感じることができるのは、とっても羨ましいことだと思う。
こういうことは終わりがなく、常に考え続けなければならない。つまり毎日が結果ではなく課程である。常に不十分だ。でも、だからこそいい。常に変化し、進化し続ける様を、私ならばもっと見続けてみたいし、そういう店に足を運びたい。
相変わらずお金の運用に困る毎日だが、それ以外はむしろよい時代なのではないだろうか。欲をかき手を抜く仕事が、ルーズに忙しかった時代にも良いものはあったのだろうが、今仕事に真摯に向き合わなければならない時代は、それを強制に感じなければやりがいのあるものだと思う。
人生にとって、いい生き方を選べるチャンスとなる、いい時代ではないだろうか。今は。
色を塗らなきゃ、絵にならない。
(いつもお世話になります浅草は大木の松浦さんの言葉。文章もうまいが絵もうまい。ちくしょう)
98.11.17
Sleep
例え眠ろうが明日はくる。
でも、眠らなくとも明日はくる。
だからとりあえずは眠る。
休むというよりは、今見えてしまう現実や時間から少しでも目をふさぐ為に。
皮肉にも、夢の中だけに目をふさぎたくないような世界が見える。
眠るのが惜しい程に、新しい未来は来るのだろうか?
(イマイチっすね、なんか。でものせときます。書けたし。)
98.11.16
見えないものを見る力
このページで最近ずっと言い続けていることは、
「見えるものだけが全てじゃない」
ということ。昔はそういうこと考えなかったんだけどなぁ・・・。
実際に実現させたいことを想像する。そういうみえないものを見る力がまず大事。これは小中学生からできていることだと思う。あこがれる。自分じゃないような立派な自分を想像する。目的、目標、ゴールを持つことで、ぐっと夢は現実的になる。距離がはっきりするってことだね。
じゃあ、どうやったらそれがかなうのだろうか。距離ということばが出てきたけれども、その距離はどうやったら縮むのだろうか。これが多分毎日まとわり続ける問題だと思う。
人間ある日突然まったく変わることなんてできない。でも、毎日の自分はいつも通りでどおってことなく変化してない。じゃあ、かなわないじゃん!確かに。
そこでもやっぱり、見えないものを見る力が大事になってくる。つまり目を凝らすこと。そうすれば分かるはず。昨日の自分と何かが違う今日の自分が。そういうものをつぶさに見守っていくことができれば、少なくとも続けることはできると思う。大事なもの、好きなものをつづけること。自分を律し続けることが。
まあ、偉そうに書いてきたけれど、俺も何かを叶えたい人間。まだまだまだまだその途中。いろいろやりたいことを考えているけれど、このページもその一つ。
毎日、同じ様な駄文を書いているけれど、いつかは、そしてコンスタントに生き物のような文章を書きたいと思う。そしてあなたには同じ様な文章の連続に見えるかも知れないけれど、僕にすれば、日々それなりに違った、成長した文章を書いているつもりです。
ん、少しずつですが、違えています。面白いですよ。
でなきゃ、ここまでこのぺーじもつづきませんや。
そう思います。
98.11.15
さびしくなりたい
貧乏暇なしとはいったものです。
とにかく色んなものを抱えてしまって、とても忙しいです。後から後から人はやってきて、みたくない顔の方が増えてしまいました。
一人になりたい。さびしくなりたい。
でも、もしもあなたが袖をひっぱってくれなかったらと思うと・・・。
もうそれだけで十分さみしくなって。
そしてまた僕は、忙しさの中に戻るのです。
「だって人間だから機嫌の悪いときもあるさー」
電車に乗り込もうとした女子高生の間から聞こえてきました。
まったくもって、その通り。
98.11.14
Music
図書館にいって「MUSIC MAGAZIN」を読む。(スペル自信なし)
はっきりいって今月のこのページは読んで欲しいぜ、ということでここに記す。
「とうよーずトーク」まずはこれを読んで欲しい。映画の持つ文化的な、本質的な意味合いを語っている。これは名文なので、是非読んで欲しい。こんな文章が書きたいものだ。
かれは黒沢映画を真っ向から批判している。で、その文書が映画音痴の俺にもすんなり入ってくるのだ。そういう文章が書ける完成が羨ましいし、なにより映画は手段を代価するものではないはずだと思う。紙芝居の変わりを映画にやらせるのは可哀想だろう?そういうことではないが、そんなことも書かれていた。彼は乗ると本当に名文を書く。
「ヒットチャートはこれだ」という能知ゆーこの分も素晴らしい。彼女は昔っから雑誌で知っているが、今までの中で一番いい文章だ。彼女がdragon Ashやゆずを正しく評価いているのは、俺にとって安心だった。
彼女が近田さんの文章を引用しているのだけれど、それにこころを打たれた。で、俺はいつかその文章をだれかに言い伝えるだろう。そうやって続いていくんだ。全ての伝統や良識は。
素晴らしい文章を引用することも大事なライターの役目だ。
とにかく、お暇が有れば上記のページをよんでくれ。
ラブホの話はお預けだ。
同じ犠牲者は二人いらない。
98.11.12
二つの道
うーん。二つの道がある。
どっちにいこうか、まよっている。
年内には決着をつけたいのだが。
ところで、商品券をくばるとかいう悪策。あれ浜四津でしょ?
あれほどの悪策をおれはきいたことがない。
社会のメインストリームの人間に金わたさないでどうするんでしょう。
あの人、おかしいよ。絶対。
あとね、江戸川区が区内の中小企業にお金を貸したんだってさ。で、抽選なんだって。これってきわどい政策だと思う。なぜって江戸川区はこれをオイルショックの時期にもやったんだっていうけど、あの時の中小企業は若いからね。今回の場合、あの時の人々が借りているわけで。つまりみんな年なわけ。中小企業って、基本的に高齢化していると思う。だいじょうかなぁ、今回。
でも、基本的にはなんらまちがってない。だから国のお金を地方の窓口におろしてさぁ、そういうとことから個人や、中小にお金を貸したらいいのになぁと思うよ。大企業対中小。なんて縮図で経済がまわるのもいいんでないかい?
とにかく、話を戻せば浜四津。これ以上未成年をつけあがらせないでくれ。消費することで大人になったように勘違いができる。これは少年につみがあるんでなくて、金の魔力なんだからさ。そういうの、助長しないでほしいんだよね。
中小企業も、もっと若い血が入っていればなぁ。金を自信持って回せるとおもうんだけどなぁ。
などとのたまってみました。
今日は本当は「通行証」「ラブホテル」のキーワードで書くつもりでした。
それは次回に。
人間は、夢の鉄格子の中にいる。
98.11.10
Life to be
あきらめることはない。くじけることぱない。たとえ、そうなったとしても。
Life to be
そうなるために、僕らは色んなふうになる。
リンクを追加しているのでよかったらご覧下さい
98.11.9
Dr.melow
「Dr.melow、すごい発見があったんだ。」子供等は祭壇に向かって駈けていった。
Dr.melowは、その教会の「神父」みたいなもので、実は只の居座り乞食である。引き取り手のない教会のそれをいいことに、彼なりのでたらめな教典を気の向くままに紐解いている。それが結構好評だったりもするのだが。
子供がいった。
「Dr.melow!、今日見上げた空にそびえる気のてっぺんの太陽を突き刺すところに、神様がこっちをむいているのをみたんだ!すごいだろう。なんて、すごいんだろう!」
子供は大分興奮している。Dr.melowは答える。
「それは、素晴らしいね。本当に素晴らしい神の恵みの一日だね。」
Dr.melowは、優しく子供をたてて答えた。
「でも、世の中にはいろんな神様がいるんだっていうよね。キリスト様だけじゃない。仏陀の神様とか、アラーの神様とか。いろんな神様にこれからもっとであるかなぁ?ねぇ、Dr.melow」
子供はなおも興奮している。それはとっても欲深で、でも純粋な望みである。
「いやいや、君は仏陀にも、アラーの神様にももう既に会っているのさ。」
Dr.melowの一言に、子供達はちょっとパニックだ。彼は続けた。
「神様はいろんな振りをしてるのさ。ある時はキリストに、ある時は仏陀に、ある時はアラーの神に。神様はどんな女の子よりもシャイだから、いつも何かの振りをしてるんだ。だから、君がどんな神様を見ているのかはまだ聞いていないけれど、それは君が全ての神様を見たってことなのさ」
「つまり神様は本当は一人だけってこと?」
「そうだね。」Dr.melowはにっこり答える。
「多分木のてっぺんから鳥が飛び立っただろう。それが・・・。」
「神様ってこと!?」
子供は目を輝かせて答えた。
「いや、その時に落ちた葉っぱに神様が姿を変えたかも知れないし、差し込む光に化けたのかもしれない。僕も神様がいつどういう姿形なのかはわからないってことさ。」
Dr.melowはそういってあごひげを掻きむしっていた。
「ふーん。難しいんだね。神様を見つけるのって。」
「だから君はラッキーなのさ。神様を見れたってことは、神様が君を見てくれていたってことなんだからね。ほんとラッキーだ。羨ましいよ。」
「本当?」子供は上機嫌だ。
「ああ、本当さ。だからいい子にして外で遊んでおいで。また神様が見ていてくれるかもしれないよ。」
「うん」
子供達は元気よく、光の扉の方に向かって走っていった。
向こう側には緑とまぶしく輝く空が見える。子供達は吸い込まれていくように走っていく。
Dr.melowにとっては、その景色が、まるで神様が化けたようだった。
神様を疑う君さえも、神様が化けた姿なのかも知れない。
見ようとするものに、信じるものの目に、神様はいつ、どこにでもいる。
なんで、こんな風なの書いたんだろう。
あ、創作2号だ
98.11.8
炎
昔は炎は自然に燃えさかっていて、僕らはそれがあたり前だと思っていた。でも気がつくと炎はだんだんと少さくなっていて、空気は凍える位に冷えてきた。
僕らはそれが初めてのことだから、どうしていいか分からなくって、とりあえず暖めた。でも炎は弱くなるばかり。
あわてふためいて、お互いをなじりあって、その間にも 炎はどんどん弱くなっていく。
そして僕らはそれが心配で、とうとうそこをはなれられなくなった。
僕らは忘れてしまったのだ。
昔その種火をどうやって大きくしたのかを。
そして、そんな過去があったことすらも。
いつからか僕らは炎のまわりに座りこんで、そしてそれっきり。
98.11.6
一番星
だいぶん冷え込んできた。今まで明るかった帰り道も、少しずつ暗くなっている。帰りぎわにふと見上げた夜空。あなたがみつけたのは一番星・・・。
誰でも一度は白昼の白い月を見たことはあるだろう。実は星も同じである。月よりも輝きが少ないので見逃しているだけで、本当は昼も夜も星は私たちに輝いている。一番星とは「一番最初に輝いた星」ではなく、「一番最初に自分が見つけた輝く星」ということなのだ。
みんなで共有するたった一枚の星空のスクリーンに、あなただけの一番星がみえたら最高だろう。星が輝くのではない。星は輝いている。あとはあなただけに見えればよい。そうすればあなただけの一番星の完成である。
どうすればその星を見つけられる自分になれるのか、それが難しい。
白昼の見えない星を、白昼堂々一番星と呼ぶことがなかなかできないのだ。
文章の密度を濃くしたいと思っています。
どういう風に文章を発展させたいのか、ちょっとだけ感じてきました。
98.11.5
添い寝
残業が増えて帰るのが遅くなった。やりたいことを諦めたくないからどうしても寝るのが遅くなる。するとどうだろう、寝よう寝ようと思ってもなかなか寝付けない。
思うに、眠れない夜が初めて訪れたのはいつなんだろうか?
大泣きしてる赤ん坊を母親は見事にあやして寝かしつけてしまう。子供の頃、眠れなかった夜はなかった。なのに気がつけば眠ることに一苦労するようになった。心配事が増えた。考え事ができた。
朝日を待つほど起きているわけではないんだ。なのに、すぐに寝付けない。
やっぱりそわそわしていると眠れないものだ。心配事も考え事もそう。子供の頃は物事をあんまり深く考えていなかったから何の悩みもなかった。だから眠れた。赤ん坊も、母親という絶対的な安心材量を確認できるからぐっすり眠ってしまうのだ。
心の支え、安心。それがはじめて揺らいだ日が、眠れない夜初めての夜だったのだろう。
大人になって、信じていた夢も半分諦めた。現実の社会は見込みよりもずっと厳しかった。何かと裏切られては迷うことの方が多くなった。自信満々だった心の支えは、一つまた一つ失われていっている気がする。
心の支えがぐらつきかけている。眠れないのは、心が添い寝できる何かを探している現れではないだろうか。心は信じようとしたり、他のものを探していたりするのだと思う。
僕といえば、迷いながらもなんとか信じていたものを支えようと思う。そういう自分の気持ちに添い寝することで、何とか安眠のようなものがとりあえず得られている。
二年前のこの時期はまったく先が決まっていなかった。
本格的にブルーになりだしたのはこの頃だ。
ただ、バイトがあったのが救いだった。働いていることで金銭的にも心情的にも満たされるものがあったからだ。
98.11.4
補足
サイレンススズカのこと、電車の中吊り広告で見かけました。その文面、頭きたね。
「サイレンススズカは誰に殺されたか?」
毎度のことだけど、やになる。こういう頭の悪い文章。
サイレンススズカだけじゃない。ライスシャワーも、ホクトベガも、みんな「競馬」によって殺された。僕はそう思っている。じゃあ、何故彼らが僕等の心の中に訴えてきたか、僕等に魅了されたのか。やっぱり彼らが「競馬」によって光をもらっていたからだと思う。
競馬がなければ彼らは只の野良馬、あるいはコンビーフの材料になっていたかも知れない。確かに競馬は馬にとって生易しい物ではない。けれども、かのような名馬達にとって、競馬とは彼らをもっとも生かすことのできる、もっとも自由な束縛だったのではないかと思うのだ。
誰の人生に無限の自由が保障されていないように、彼らにも無限の輝きは保証されるはずもない。私たちの住む社会がルールという束縛を持つように、競馬社会は命を削るという代償が常に潜んでいる。彼らはそういう束縛に、運悪くひっかかってしまった。でもしょうがない、彼らは競馬社会に生きる競走馬なんだから。
たしかに、馬場の問題、レース前の騒音の問題など、改善すべき点はいろいろとある。けれどどうしても100パーセント安全な競馬なんてない。
彼らは代償を常に隣り合わせに走り、輝いた。彼らにとってはそれが必然ではあるが、勇気の必要なことでもあると思う。
なのに私たち人間がその輝きだけにしか目がいかないとしたら。それは甘ちゃんだし、常に代償を隣り合わせにしていた競走馬としての彼らの勇気に対して失礼だと思う。
彼らは人間よりも守られていない。
なのに僕等に与えてくれる。
そう思える心が、競馬に触れることを許されるのではないだろうか?
大事な気持ちは胸につまっているのに、言葉はさっきからそれを避けて喋り続けてる。
98.11.3
しばらくでした。
どうも、しばらくぶりです。お元気でしたか?
私といえば、胃が痛くなったりならなかったりで大変です。大したことないと自分では思っているんですが、そう思っているうちに病院にでも行った方がいいんでスカね?ちょっと気になるなぁ、と思っていると直ってしまうもので・・・。忙しくなる前に大事をとろうかな。
で、リンクの件なんですが、なんとリンクを二つのホームページの方からしていただきました。ありがとうございます。ですが、こっちが準備中のまま。申し訳ない。今週中にはばりっとやりますんで。勘弁して下さい。
久しぶりなんで、適当に気になることを書いていきます。
まずは、フリューゲルスの問題。なんかどうなるのかごたごたしていますが、なんとかしてチーム存続の方向で動いた方がいいと思います。確かに佐藤重工でしたっけ?安易すぎです。後藤なんとかという私も決して嫌いではい(いや、むしろ好きな)サッカー評論家が「メリットがないのによくここまで続いた。メリットがはっきりとしなければスポンサーが付かない」といっていた。確かにその通り。でもスポンサーに付いたのに何のメリットも得られなかったのは企業の方の問題でしょ。こんな形でしか社が有名にしかならないなんて、本当にお金出しただけでコンセプトがなかった証拠。
今後の形は分からないけれど、フリューゲルスの株式を一部でもいいから公開して、サポーターにもチーム存続の権利と保障と義務を持たせてあげた方がいいのではないかい?地域密着型とはこのことだし、他の地域でもフリューゲルスファンっているでしょう。サポーターもわがままな企業にいつまでも振り回されたくないだろうし、企業の負担も雀の涙ほどですが経るでしょう。1000円とかでもいいので、子供でももてるようにしてあげて下さい。
そういえば、エスパルスの経営体型ってどうなってるんだろう。
次は競馬、サイレンススズカのこと。
競馬にこういうことは付き物だけれど、今回は悲しいと言うよりも「疲れた」が正直な感想。俺が競馬を始めてから、ライスシャワー、ホクトベガと悲しい思いをしてきた。それ以外にもレースで命を落とした馬は沢山いるけれど、この2頭は、引退レースで命を落としている。つらい。
サイレンススズカが天皇賞で故障したとき、私も府中にいた。そしてその時は命のことまではわからなかったけれども、「またなのか」と思った。悲しい前にそういう繰り返しに疲れたというのが本音です。悲しいけれど、悲しくなれない。
レースの方は、長年応援してきたオフサイドトラップが優勝。それ自体は嬉しい。けれどね。勝利ジョッキーも辛いだろうね。喜んでいいのか、控えていいのか。但し、勝利者が喜びをいっぱいにしてこそ、敗者は勝つことに意義を感じるのも事実。喜んでは欲しいけれど・・・。
とにかく大事な血をなくしてしまったと思うし、ああいう馬は今後もまず表れないとは思う。競馬が競馬であって馬券だけでないのは、やっぱり感情も一緒にレースに持っていってるから。だから楽しい。だから辛い。
ただ、競馬を知らない人に教えてあげたいのは、そうすることしか今の人間にはできないとこと。当事者こそ本当に血を残したい、命を救いたいのは当たり前。そういう彼らがやむなく「薬殺」する事にはそれなりの理由がある。
いつか暇があったら「テンポイント」というやはり栗毛の美しい馬の、悲しい最期を誰かに聞かせてもらうといい。馬という物は非常にデリケートで、脚は骨と健だけでできてることもしっておいて欲しい。肉がないからそれが壊れたら支えがないということ。骨が折れることは脚が壊れるということ。サイレンススズカの場合は、変わりの効かない間接の間の骨が砕けてしまった。これではもう元にも戻らないし、ボトルも当てられない。
馬は運動を止めると一気に病気になる。寝返りがうてなければ皮膚が腐って死んでしまう。蹄が地に着いたままでも蹄から腐って結局死んでしまう(従って義足ができない)。長い胃腸が絡まってもしんでしまう。運動不足がそういうことを誘発するのだ。
改めて馬という物は制約の多い生き物だとおもう。でもだからこそ尊く、そしてF素直だからこそ美しい生き物でもある。人間にはない魅力を持っているし、だからこそパートナーとして長く欧米で愛されてきた。
実物の馬ってのはでかくてこわい。でもそれだけでない魅力がある。だからこそそれが不思議で、それが私は愛おしい。
ちょっと話がそれたが、辛い現実である。
せめて、サイレンススズカの冥福を祈るのみである。
他に気になったこと・・・。やっぱ自分の健康でスカね。最近はヤクルト毎日会社で飲んでます。あれって続けると本当にきくのかなぁ。
あとはねー。んーーー。何で更新が止まってしまったのかなぁ、ということかな?これは自分でも不思議ですね。書けなかった。忙しかった?いや、おっくうだった?でも本調子でもなかったなぁ。
ま、これからもよろしくっす。
ではでは。
今自分が背負ってる荷物の中を見たことが一度もない。
よく考えたら。