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98.12.31
getsoul98(harf)
陽はまたのぼり繰り返していく僕等の空をのみこんでいく
生き急ぐとしてもかまわない飛べるのに飛ばないよりはいい
(陽はまたのぼりくりかえす/BuzzSongs:DragonAsh)
中央線はおもちゃのようによく止まる。
best will be better
better will be good
自分を一番自由にしてくれる束縛は何か。
それを大事に思う心を育てよう。
(新ゴーマニズム宣言special 戦争論より)
成功には忍耐が不可欠だ。私は経験からそう学んでいた。
(中略)成功に至るハイウェイには、出口がたくさんある。つらくなると、ついつい出口に下りたい誘惑に駆られてしまう。
(ギル・アメリオ/「アップル薄氷の500日」より)
会話のない会話というのもある。
「旅に出してみるもんだな、体は」
今自分が背負ってる荷物の中を見たことが一度もない。
よく考えたら。
大事な気持ちは胸につまっているのに、言葉はさっきからそれを避けて喋り続けてる。
人間は、夢の鉄格子の中にいる。
同じ犠牲者は二人いらない。
「だって人間だから機嫌の悪いときもあるさー」
電車に乗り込もうとした女子高生の間から聞こえてきました。
まったくもって、その通り。
色を塗らなきゃ、絵にならない。
HIDEのラストシングルは、もしかしたら20世紀を代表するくらいのクラスの歌かもしれない。
人には人の世界がある。
「ふりかけ式瞬間増毛法」
反省して態度が変わったとしても、体質まではなかなか変わらない。
やがて体質は態度を元に戻してしまう。
結局体質を変えるのは本人で、その動機付けとして教育があり、反省させることは教育における一つのやり方でしかなく、そのために「怒る」ことなど、ただ一つの手法でしかなく、大した事象でも、事件でもない。
人と話をするのは難しい。
「人が本当に後悔するのは、あの娘をダンスに誘わなかったことさ。」/スティーブジョブス
チョイスしています。
今年もありがとうございました。
よいお年を。
98.12.23
timed
誰の人生も二つとして同じものはないが、誰の人生にも同じように訪れるものがある。
それは「老い」だ。
人生にもリタイアがあると思っている。それは「死」ではない。「死」は終わりだ。ある日人生にピークが訪れ、そこからは下り坂になる。そして仕事を引退する。様々な局面で他人に席を譲る日が来る。
メインストリームから外れる日、それがリタイアするということだ。
話は変わるが先日風邪をひいた。風邪をひいていないつもりで実は潜伏期間が長かったことを悟ったのは、熱が出て風邪が本格化したその日であった。幸いにして熱は一日程度で引いたが、風邪がきっちり抜けきったのは、体調がいつも通りになったのはそれから一週間後だ。
高校生の頃に比べて、正直、認めたくないが大分回復力が落ちた。「老い」のようなもの。少なくとも若くはないと感じたのはこの時だ。
今の僕は昇りながら下っているのだろう。体力は落ち始めているが、経験や思考は今まさに上昇を続けていると思う。これが大人なのかも知れない。これらが全て下るときが、「老い」なのだろうか?知る由もないが、考えてみたりはしてみたい。
僕が思うに、日本人のダメなところというか「老い」てしまう原因の一つは「年下と友達になれない」ということだと思っている。たとえば、僕の友人と僕のおばあちゃんは友人になれない。(幸いにして父親、母親とは仲が良かったりする。良いことだ。)でも話してみれば沢山勉強になることがある。特にこの不況でびびっている人は、戦前の人の話を聞くといい。苦しくても生きようとする信念。魂。贅沢など見込みのない時代に、なぜそれでも人は生きようとしたのだろうか。今こそ、考えるべき事だと思う。
僕は実家に帰ったときに必ず一時間はじっくりおばあちゃんと喋るように心がけている。おばあちゃんが喜ぶだろうと思って、別に信心もないけれど仏壇の前に座る。おばあちゃんと話をしていると必ず戦時中の疎開の話になる。俺はこの話が好きだ。
私の実家は静岡で農家をやっているので疎開先として多くの親戚がやってきた。今はおばあちゃんが一人でテレビを見ている部屋に、そのころは多いときは14人も食卓を囲んだという。苦労もしたがにぎやかで楽しかったともいうおばあちゃん。
そこに何かがあるという感覚。それが僕からずっと離れないのだ。
しかし年寄りのくせに若い友達を持っている人も僕のそばにはいる。それがすごく僕の励みになっている。例えば台湾生まれの佐藤さん。あんた、すごすぎ。あるいは浅草の松浦さん。宋さん。特に松浦さん。電話で「おう、電話でチュウだ。」とかいってびびらせないでくれ。あなた今年で73じゃないか。
こういう笑っちゃう人たちは、僕にとって具体的な目指す未来だ。
年寄りのくせに若い人とも話せる。楽しめる。何故なんだろう。彼らがなぜそうなったのか分からないが、少なくとも僕等にとって得るものがあるからつき合いがある。でも、損得じゃないんだ。こういのは。
結局何が嬉しいって、彼らは年下の幼稚な僕等にほんとに親身になって教えてくれる。そして本当に親身になって聞いてくれる。立場はあくまで対等。それが心から嬉しいのだ。
スティーブジョブス曰く「人生は短く、人は遠からず死ぬ。これは真実だよね。」
それは真実で、僕はその重さに真正面から向かい合いたくて、色々と考え込んでしまっている。
そんな今だ。
「人が本当に後悔するのは、あの娘をダンスに誘わなかったことさ。」/スティーブジョブス
98.12.15
牛肉
なくしてしまった本をみつけたので再購入した。タイトルは「女たちよ」著者は伊丹十三。
内容は簡単に言ってしまえばコラムなのだが、その中に良い牛肉の定理というものがあるので紹介する。
「高い牛肉と安い牛肉」
「固い牛肉と柔らかい牛肉」
「うまい牛肉とまずい牛肉」
これらは相互に何の関係もない。
以上が牛肉の定理である。
牛肉と思って馬鹿にするなかれ(伊丹風だな)。これは様々に融通が利く定理なのだ。
「若い人と年寄りの人」
「頑固な人と穏和な人」
「いい人と悪い人」
これらは相互に何の関係もない。
鼻を高くしてみたところで、牛肉も人間も同じなのだ。
定理の上では。
風邪で消化があんまりできません。
食べれない。
98.12.14
風邪
「社会人たるもの風邪は土日にひけ」
という格言があるにもかかわらず、私、日曜日の朝に39度弱の熱を出してしまいました。
本日というわけで会社を休ませていただきました。
会社の関係者のみなさん。ご迷惑をおかけしました。
それにしても普段平熱が35度台の人間が39度弱出すと、かなりきついですね。
「熱ってこんなにくるしいっけ?」と思ってしまいました。
取りあえず、今は熱も引けたのでこんなことしてるのですが、
明日問題なく出社できるよう、もう寝ます。
ではでは。
ここ何日か分、一気にかきました。
98.12.13
所有と共有
ラジオで「昔のテレビの所有率は今でいうロールスロイスぐらいですかね。」という発言があった。その後すぐに「でも、喫茶店とか、街頭テレビなんてものもありましたから。」という発言が続いた。
前者は「所有」後者は「共有」である。
ではいろんなものを取り上げてみよう。
幸せ、悲しみ、ロールスロイス、喜び、音楽、時間、食事、ネットワーク、etc。
風邪が抜けきらないので単純なものしか浮かばないが・・・。
それぞれ、所有するべきか共有するべきか。
果たしてあなたはどちらと判断したのだろうか?
そしてどちらの方がそれぞれのものが、僕等が本当にあるべきなのだろうか。
98.12.12
忘れるようなひらめきは死にか?
ひらめいたのに後で忘れてしまったということはないだろうか?
私もそういうことはよくある。私は昔から自転車で坂を下っているときと、風呂に入っている時は最高の作曲者(作詞者)であるのだが、忘れてしまうのだ。忘れまいと口ずさんでいると、ギターの前では全く別物のメロディになっていた・・・。
会社に来ているデザイナーさんと話していたのだけれど、その時に「忘れちゃうようなインスピレーションは死にでしょ?」というようなセリフが出てきたのだが、私の自転車の歌なんかを振り返るに、確かに正しい意見だと思う。
しかし、そうだろうか?というのが最近の私の感想である。
私事だが、newtonというツールを手に入れていらい、普通のからから見ればちょっと異常なほどのメモを取るようになった。思いついたらとにかくメモっていた。その結果、いつもなら忘れてしまうようなインスピレーションが残っていることが多々ある。
そういうメモは結果からいうと「そこそこ使える」というのが本音である。たしかに忘れることことのないようなひらめきよりも光は失っている。けれど、そこから再びひらめきを思い出すことができるし、新たに考え出すこともできるのである。
したがって、「死に」ではない。
忘れるようなひらめきは干物のように、水を与えれば戻すこともできるし、別物の味も持ち合わせているのである。
と、こう書くと印象深いひらめきよりもよく聞こえるかも知れないが、やはりそんなことはない。
忘れるようなひらめきは間違いなくフレッシュではない。
そしてフレッシュさとは、ひらめきにもっとも大切な要素である。
98.12.11
仕事の効率化
芸術的な仕事、クリエイティブな仕事が完成するためには、沢山の無駄な時間が必要だ。その商品が成功するためには、裏で、影で沢山の失敗をしなければならないということだ。
しかし、よっぽどの芸術家でもない限り、時間の余裕のある人はいないだろう。時間の余裕がないと、既存のものにちょっと手を加えた、ありきたりの「失敗しない商品」のようなものを創るので精一杯ではないだろうか。どうすればそのような状況を打開できるのだろうか。
仕事を効率的に行うためには、「全体を大雑把に仕上げてから、細かい部分を調整する」ということが必要だと思う。最初から最後までこまかく作り上げるのではない。大雑把な仕事は誰にでもできるようにルール化してあげ(つまりは工場生産化と一緒だね。)、誰でもできるようにする。そしてそれをそれぞれの商品にあわせて細かく調整してあげる。ミスチェックなども、その時に厳しく行うのである。
時期的、ケーキ作成を例に取れば、スポンジの部分はデコレーションケーキならイチゴだろうがチョコだろうがフルーツだろうが使い回しがきく。だからそれはみんなの分を一緒に創るようにすればいい。あとは各部署に任せるようにする。だからスポンジ生産時にはケーキのチェックなどできないし、またする必要もないということだ。
まあちょっと都合のいい例えだったのでいろいろ有るかも知れないが、そういう風に時間的に圧縮できる作業は圧縮してあげることによって、クリエイティブな作業が求める時間を少しでも生み出してあげる、そういう努力は必要である。
つまり、当たり前のことではあるが、限られた時間をできる限り有効に使う。そのためには仕事は効率化されるべきだということである。コスト的にも、時間的にも。
98.12.10
効率的な字
字が汚くなった。
年賀状の季節が近づき、本当にそう思うようになった。昔は結構字はきれいだったのだが。
で、汚い字が何故汚いのか。考えてみた。
じーっとみる。じーっと字を見る。で、分かった。
画数が少ない。メリハリがないのだ。
字が汚くなったというのはつまり字が乱雑になったということだ。
その乱雑さは、きっちりとしてないということ、つまり画数が極端に減ったということだ。
もしあなたの字が汚くなっているとしたら・・・。
じっとその字を見て欲しい。多分あなたの字も、私の字と同様、画数をなくしてしまっているはずだ。
漢字の本を見直して、正しい画数で漢字を書いてみよう。
そうすれば、だいぶん字は直っているはずだ。
とはいってもね。生活の中で速記はどうしても必要なわけで。
そういう意味では、とっても合理的な字なのですね。この汚い字は。
さてはて。
98.12.9
嘘をゆかしむ人々
今日は子供は読んじゃダメだ。
多分サンタクロースなんていない。それがまっとうな大人の意見だろう。
でも子供の前で、大人はサンタを待つ振りをする。あるいはサンタになろうとする。サンタをいろんな風に偽ろうとする。
偽り?嘘?不正じゃないか!!!
などと野暮な糾弾をする奴などまずいないだろう。それが大人ってもんです。
ま、自分が果たして大人なのかは別として。でも、そういう風にすてきな嘘を長い間守り続けている。それってすごい想像力のある、魅力的なことだ。楽しい。素晴らしい。すてきだ。
やはり嘘がいけないのではない。
嘘を使って不当に得をしてはいけないのだ。
ま、このさいそんなのはどうでもいいんだけど。
今年もまた、嘘偽りのない靴下に、赤い服を着た大人がプレゼントをめいっぱい詰め込んであげるという、すてきな季節がやってきた。
全ての人に、恋人達にもであるが、まず子供達に、家族に、良いクリスマスを分けてあげたい。
人と話をするのは難しい。
98.12.8
動く名詞
久保田利伸の歌の中に、確か
「波の絵筆が二人の心ゆらす」
というのがあって、私はこれにひどく感動した。
このフレーズの目立っている部分は「絵筆」という部分。絵筆。名詞なのに動いている様がありありと伺えるではないか。そしてそれだけでなく趣がある。
とっても良い文章だと思う。
ありとあらゆる文章は、「主語、述語」の関係からなっているし、「名詞、動詞」という構造を持っている。これはわかりやすい文章を作り上げるが、いかんせんマンネリなのだ。
そういうマンネリ打開のために、奇抜でわかりやすく新しい表現がしたい。そう思った。その時、この絵筆という「動く名詞」がびびびっときたぜ。
文脈の前後を整えさえすれば、踊り出すような名詞は沢山あるはずだ。
最近探している文章の形の一つがこれです。
反省して態度が変わったとしても、体質まではなかなか変わらない。
やがて体質は態度を元に戻してしまう。
結局体質を変えるのは本人で、その動機付けとして教育があり、反省させることは教育における一つのやり方でしかなく、そのために「怒る」ことなど、ただ一つの手法でしかなく、大した事象でも、事件でもない。
98.12.3
Winter Song
みぞれを手のひらですりつぶし、唇にこすりつけてみる。
冷たさが流し込まれ、町に冬は訪れた。
「また来たんだ」僕はつぶやくと、
「僕は君だよ」と季節はうそぶいてみせた。
でも確かに感情の波は、四季の移ろいに似て。
町を見渡せば人々の表情は雪に舞い上がり春のようだ。
ドアを開けて冷えきった部屋に明かりをともす。
疲れが垢のように抜けきらない体が、グラス一杯ほどのワインをにらんでいる。
コップ一杯程、そこには秋があって、
やはり季節は様々に形を変えている。
グラスに注ぐ間
空っぽのグラスに秋が満たされてゆき、
秋をため込んでいた瓶は少しずつ冬に近づいていった。
しばらくすれば、今年も終わり。
無事に過ぎてゆきたい。
明日は早起きしないと。中央線止まるし。
98.12.2
町が大きかった頃
東京に出てきてまったく田舎が田舎になった。
ぼろい町だなぁ、と思うことが多くなった。都市であるないということでなく、なんというか効率的でない。頭が悪いと思う。今度新富士駅にくることがあったら確認して欲しい。もうちょっとなんとかならないかあの駅ビル。最後の集客の拠点が、見事に失敗している。
ところで、そんなふうに今年で24男がいっぱしの事をいうようになったのだが、昔、学校帰り、非常に帰り道が長かった事を思い出した。そしてそのころは今よりももっと町が大きかった事を思い出した。
例えば駅の駐輪場ですら屋根が高かったし、すみっこ(静岡ではこばっちょという)に妙な空間の暗闇があったりした。古い建物は不気味に見えたし、建ち方は迫ってくるように見えた。踏切は高いところから振り下ろしてきた。
今はそんな風に感じることはない。でも、あの頃には確かにあった。
町が小さくなったのか。それとも僕が大きくなったのか。
かがんでみても多分もう、あのようには見えないだろう町の景色。
あの頃は僕の心の中だけに、色あせず残っているけど。
「ふりかけ式瞬間増毛法」
浅草の薬局でずいぶん前から見つけたこの張り紙が気になって気になってもう・・・。
想像できるだけに気になる・・・。
98.12.1
クリエイトしないと評価されない
労せずして得したい。何もしなくても素晴らしいと評価されたい。
そういう風に考えたことがある人もいるだろう。私もそうだ。自分だけの鋭い見解で評価ができれば、その評価が価値あるものになるのではないか。ちやほやされるのではないか。金になるのではないか、そう思った。
日曜日の深夜(月曜日の早朝)、「ビートたけしのビートニックラジオ」という番組でたけしの「HANABI」を評価した故・淀川長治氏のインタビューというのか、コメントというのかが、流れた。淀川さんは日本映画は全くといっていいほど見ないそうで、たけしのことも映画をとりだす前は「人の悪口をいうひとはきらい」といっていたという。
なのにだ、その淀川さんにして「日本の映画はたけしがいるから大丈夫」と評価をかえた。たけしの才能が芯から本物であるという素晴らしさと同時に、淀川さんの映画に対するピュアな偏見のない姿勢も素晴らしい。
ラジオに一緒に出ていた水道橋博士がいっていたが、「淀川さんはどんなどうしようもない映画でもけっしてけなさない。何かしら必ず誉めて誉めて誉めまくる」といっていたが、思い出してみて正にそうだと実感した。淀川さんの評価はそのまま誉めるということだった。これは映画を撮るものにとって、そして視聴者への優しさである。
撮るもにとっての優しさはいうまでもないだろう。では、視聴者への優しさとは何であろうか。日曜映画劇場で放映される映画の全てが良いものであるはずもないし、また淀川さんが好むものでもないだろう。しかしだ、淀川さんの嫌いな映画に心打たれて、言葉もない視聴者というのも必ずいるはずである。そういう人が映画の最後に、「この映画、最悪ですね。」などと聞いたらどうだろうか。
あるひとは怒り出すだろうし、ある人は悲しむだろう。専門家がそういうのに私は感動してしまうのだから、自分は感受性がない人間なのだ、そう思うかもしれない。そうなったらどうだろうか。悲しいことだし、その人は映画を嫌いになってしまうに違いない。
そういう事を避ける賢さと優しさ。それらを持ち合わせていたからこそ淀川評論は専門家と大衆の指示を得たように思う。これは淀川さんが作り出したオリジナルな評論技術である。
またたけしの映画について淀川さんはこう表現した。
「たけしの映画はね、差し出されたくしゃくしゃの新聞紙からね、男の履き物がでてきた。そんな不器用さと意外性があるんだよね。」
くしゃくしゃの新聞紙から男の履き物が出てきた・・・。なんと無骨で、なんと情に厚い言葉だろうか。私はたけしの映画は見たことがない。見たことがないが幾らでもシーンが想像できてしまう。この言葉を発明した淀川さんに、私は思わず敬服してしまった。淀川さんは文章家ではない。評論家だ。なのにこの言葉の使いかた。これも淀川評論技術のすごさである。
思えば淀川さんは「サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ」というインパクトだけのおじいさんだった。けれど、それはあくまでも捕らえやすい一面であり、その裏にはやはりプロとしての素晴らしい技術があった。そして評論が金になっていた人であるが、決して労せずいたわけではない。そこにはオリジナルの素晴らしい技術があったのである。
結局、クリエイトしなければ評価されない。やりたい放題好き勝手にやって、それに自分勝手な評価を与えてくれるような社会は存在しないのである。そしてその技術を生みだすためには、損得を問わないような人間としての優しさが必要なのではないだろうか。
「サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ」と3回サヨナラを繰り返したのも、まだサヨナラの回数が定まらなかったころ、それが子供達の賭の対象になっているときいて回数を決めたのだという。
そこには目の前にいないはずの子供達を見ることのできる、淀川長治の曇りのない視力があった。
最近は短いのをという傾向だったので、逆に長くしてみました。