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99.2.23
future was past(未来は過去だった)

 と思ってしまうくらい、時間はあっというまだ。


 やるべきことをもらさずやる。
 うまくいくかどうか、それを待つ権利がそこではじめてできる。
 誰のものでもない世界。結果はその時まで誰にもわからない。






99.2.20
夢があれば大丈夫!

 なんかビールの宣伝だったかな。「頑張れニッポン。大丈夫。夢があれば」という文句をいっていた。
 それは確かにこの不況の中で、僕等を確かに励ましてくれる。でも本当に大丈夫なのだろうか。僕等。

 僕が上のCMを聞いた後に思わずつぶやいた。「でも見る夢が問題だろ。」これ自分でも言ってみてびっくり。
 昔から今の今まで。社会ってのはきれいに言うと夢の結晶です。夢見たものが現実になったはずです。でもその夢がかなった社会で僕等は今うだうだ言ってる。社会は停滞してる。行き場をなくしている。夢は叶った。でもなんかダメ。じゃあ、夢見たものになにか問題があったのではないか?
 まあ、そういうこというとちょっと怖いし固いんだけど。でもでもどんな夢をみるかってのはとても重要だと思う。自分だけが楽しめる夢?かないそうもない壮大な夢?みんなで共感できそうな小さな小さな夢?夢ったって、そりゃいろいろあるぜよ。十人十色っていうけど十夢十色って感じだよね。あっとだったら「大丈夫。人がいれば」といわれれば「いやいや人生そんなに簡単じゃない」ってすぐ分かるよね。でもまあ「大丈夫、人がいれば」ということは心根で強く信じてはいるのだが。まあそれだけではダメだってのは明白だから。

 人は誰でも夢を描く真っ白なキャンパスは持っている。そして誰でもそこに描きたい。でも、描きたいものが分からない、描くものがない。描いてみたけれど、線が描けない、面が濡れない、色が選べない。うまくいかない、納得できないって人ばかり。それが世の中だ。
 そして人生の時間という消しゴムで、何度も何度も書き直ししているのが現状だ。消しゴムは使っていけば行くほど、思いの他早くなくなってしまう。

 実際僕も自分のキャンパスに何度も何度も夢を描いた。幼稚園、漫画家・消防士。小学校、農家。中学、農家。高校、進学。大学、教師。現在、またまた農家。もはやキャンパスは真っ平らではなくて、鉛筆が何度も何度もえぐった後がある。消しゴムが拭いきれなかった汚れも残っている。そして僕はまた新しい夢の絵をなおしてみたり、色を探してみたり、はたまた他の絵を描こうかと考えたりもしている。そもそも消しゴムがなくなる前に、なにかしらの絵は描ききれるのだろうか?壮大な疑問だ。
 欲望は拡大していくのに、絵筆はどんどん縮小していくような気もするし。

 まあそんなこんなで、夢はなければだめ。でもあるだけでもだめなのだと、僕は感じているんだと思う。やはり質について、いろいろ考えるところはあると思うんだよね。僕もいろいろ考えながら、まあ今のところ会社に通勤しているわけですが。

 本来はgetsoulにかくつもりが、考え出したらこっちになった。


 「粗雑で古臭い価値観」
 アップル原田社長と糸井さんの雑談。
 すばらしく勉強になったし、共感できたし、面白いです。
 こういう文章がほぼフリーで閲覧できるインターネットってやっぱりすごい






99.2.17
しばらくぶりです。

 えー、疲れてたりいなかったり忙しかったりで、なかなか書き物できませんでした。
 いやーごぶさた。楽しみにしているだろう花ちゃん。ごめんね。(どうせそれ以外に定期的にみていてくれている人はいないだろうし・・・。)このページでメールもらったことって一度もないんすよね。うーん。ちょっとがっかりなことなんだが。
 今まで痒い痒いといっていた世界をもう少し背負う事になってみると、これが予想以上に重かったりしてちょっと当惑気味。はっきりいっていい加減に対処しそうな自分になりそうでこわい。初心を忘れてはいけないよね。というか、初心になれる自分で、せめていなければ。なんてね。
 でもさあ「初心忘れるべからず」っていいますけどさぁ、本当にできます?そんなこと。
 ここで出す例えが適当かどうかわからないけれど、例えば男女の中でもさぁ、あるじゃん。マンネリ。昔はさぁ、御飯どっちかが遅れて食べる時は、早く食べた方が気をつかって、いやそれがしたくてか。ずっとテレビとかも見ずにじっとこっちをみて待っていてくれた。ところが今はテレビ見て酒のんでる。とか。どう?どうよ?
 あるいは、初めはいわれなくても残業してがんばって仕事していたのが、このごろじゃあ暇見ては目盗んではホームページの手入れしてる。とか。どう?どうよ?
 俺はねぇ、別に初心を忘れるのは別段問題ではないとおもうの。ただ俺は始めよりもよくなりたいだけ。でも人生紆余曲折。歩いているうちに下回っていたり潜っていたりするんだよね。そういう道から抜け出すためには、スタートライン。覚えていなくちゃ。そのためにね、初心を自分が覚えていないと、まあいけないのは身にしみてよく分かっています。
 でも始めっからどうしようもなくまちがった場所にいることもあるしね。なんだかんだいって今の自分を的確に判断できるならば、「初心」など忘れてもいいようなきがします。
 といいつつ、そうなれる人の初心ほど、清く正しく強かったりするので、結局「初心忘れるべからず」ということになるのかな。
 ま、僕はそんなにいいこちゃんでもないので、彼らの振りをして初心をなんとか思い出してみたりする日々です。

 あー、ストレス。
 いいたい事がいえない。言っていいのかな?自分?


 taka0205@fa2.so-net.ne.jp
 どうやら。






99.2.10
敵・味方、右・左

 人間の安心って何でしょう?
 たとえば自分が正義であること。例えば自分に味方がいること。両方そろっていればなお安心かもしれません。
 人生は安心を得ることが目的になったりします。不安ばかりの日々は精神的にも不安定ですし、毎日を楽しむことができません。安心を得ることは、そうした日々からの脱却です。
 しかし、勘違いしてはいけないのは「『安心できればよい』訳ではない」ということです。徒党を組み悪事を以って相手を虐げ、自分を優位にすることで安心する。それは確かに一時的な安心になりますが、長期的に見れば争いを産み、大きな不安定を生み出すことになります。

 良事に集うのか、集い良事を行うのか。それは卵が先か鶏が先かという討論と同じですが、日本人に関していえば、「まず集う」ことが多いように思います。そして安心を得るために集いを守ろうとするのです。その結果、その集いの中でのルールが、とにかく「善」となりがち。安心を得るがために、そのルールを疑うことがなかなかできないようです。逆にいうと、例え相手のルールが素晴らしくとも相手である以上、内容は問わずに「悪」となります。

 こういう事例は昔の家族や村社会にとくに顕著でしたが、個人の時代が訪れるようになって多少風化しました。集団のルールより、個人の自由さが尊重されるようになったからです。ですが、結局安心を得るためには「他人の評価」が必要になります。自分が正しいと判断して欲しいのです。そうやっていくうちに小さな仲間社会が生まれるようになります。それは共通の価値観をもった「集団」の誕生です。

 集団が良い、悪いということでなく、人間誰しも集団の中に存在するものだと思います。上記の事も、集団が集まるとそういう傾向に「なり易い」ということです。集団か個人かという問題を超えて、いかにして良事を追求できる集団になるか、そういう個人の集まりになるか。それが人生の中で求められるものであり、また安心を得ることに繋がるのだと思います。大変な過程ではありますが、安易に求めてはいけないのです。

 ただ前述したように、集団に「自分が善である」という欲があるように、個人にもそういう欲が潜んでいる気がします。例えば、物事や人物を、「これは好き、これは嫌い」「これは善、これは悪」「これは敵、これは味方」と判断する時。私はこれらを「右と左」に分けるような感覚に陥ります。
 本来なら自分が善であり味方なのだから「自分側、他人側」と振り分けをしそうなものですが、自分を真ん中において「善は右、悪は左」という感覚が自分にとって一番わかりやすいのです。
 これは自分が裁きの中心にいるという、ある意味自己の確立を意味しています。
 しかしこれは「自分は特別である。」という賢者意識ととることもできます。

 そして正直に告白すると、私自身そういう思い上がりがあるのではないかと思うのです。

自分の持つイメージ



 日本人はわからないことはきかないんです。
 アメリカ人はわからないことは聞くんです。
 原田さんはアメリカ人なんですね。
 (これは第一回からの引用)






99.2.8
顔の不自由な人

 とあるサイトで自分の子供が「めくら」とか「片手落ち」とか「びっこ」という言葉の意味をしらないと書いていた。そしてそれを悪意を持って使うかどうかが問題であって、言葉自体を過度に敏感に黙殺してしまう今の社会や教育に、なんともふがいない心持ちであられるようだった。
 「シンプルにする事」「簡単にする事」と「選択肢を貧しくする事」は同じではないと思う。ぼくは上述した単語の意味をすべて知っているが、そういう身体的ハンディをもった方々にその言葉は使わない。知らないから使えないのと、知っていても使わないのでは、理性の強さがまったく違うと思う。人間にとって大事なのは理性であり、「この言葉はつかってはいけない」と気付く心こそが、大事なのだと思う。思いやりの心だ。
 ちなみに上述の単語を言い換えれば「目の不自由な人」「手の不自由な人」「足の不自由な人」となるのだろう。では不細工な顔の持ち主は「顔の不自由な人」とかいわれてしまうのだろうか。いつか「不細工」が差別用語だといわれる日が来たら、きっとそうなるのだろう。
 まったく余計なお世話である。
 腹立たしい。


 「ソクラテスは哲学者であり物事のやり方の間違いを指摘して回った。
  人はソクラテスに毒を飲ませた。」
 (アップル薄氷の500日/ギル/アメリオより)






99.2.7
設計と製造

 「設計と製造のどちらに精魂こめるのか」という問題がある。
 これは、製品がどういう行程で製作されていくかによって答えが左右される。とはいえ、設計で手を抜いて製造がうまくいくことはない。不十分な設計はダメな製品を生み出すのである。
 しかし生産の行程によっては、最初にきっちり作り上げた設計が全く無駄になる場合もある。例えば「初めて作るのもの」とか「お客の要求に変更があったもの」など。初めの商品開発は予想外の不安要素が常に見えないところのに潜んでいる。作っていくうちにそれが表面化し、問題となり設計に逆戻りする。お客の要求に変更があった場合はいうまでもない。製品はお客の要求を満たすためのものであり、変更があれば自然に設計にも変更が必要になる。
 上記の変更は何度も起きる事がしょっちゅうであり、それ自体は別段問題ない。しかし、それにつきあう人間がまいってしまう。まいってしまうと疲れてしまって設計することに集中力がいかなくなる。そして不十分な設計のまま製造が始まる事になる。変化が問題ではない。変化に人間がつきあう事に問題があるのだ。つきあいきれないということ。
 律儀に考えれば最初から最後まできっちりつくらなければいけないが、無駄ない設計をするためには、少々ゆとりをもった設計が必要になる。最初にゆとりをもって始め、最後にきっちりと作り上げる。最終的な設計は、製造ができるだけシンプルになるように作らなければならない。
 設計時に考えるべき事を、最終製造時に考えてはいけないのである。
 また考える事ができない人でも製品を組み上げられるくらいに、製造がシンプルでルール化できるような、そんな設計をしなければならない。
 職人の仕事でなく、工場の(会社の)製造を無駄なく行うためには。


 書いていて「なに当たり前のこと書いているんだ」と自分でも思いながら書いています。
 書けない。






99.2.6
24になりました

 二月五日を迎え、無事に24才になりました。ですけれど、過去の誕生日でこんなに体調の悪いのはなかった。「厄年」を満喫した誕生日となりました。

 再考imacということで「iMacは家電である」と書いたんだけれど、友人からメールが来て
『iMacはパソコンの取っ付きにくさを排除した代物ではあると思うが、俺が受ける感想は『新しいPerforma』の何ものでもないような感じがする。G3はすごいけどね。』
 とのことだった。

 俺も確かにそう思う。でもそういうのってパソコンを知っているものの感想。で、それは確かに事実。でも世間はもっと何も考えずにiMacを「かわいい」「インターネットができる」という理由だけで買っていく。そうさせるiMacっていう存在は凄い。パソコンを知らない人々にも手をのばさせるというところが「家電的」と書くべきだったなぁ、と思っている。

 ついでにiMacの拡張性について触れる。
 たしかにfirewireがないiMacは拡張性が乏しいように感じる。けれどiMacのもっとも素晴らしい拡張性、それはPowerPCG3を積んでいる事だと思う。このおかげでMacOSXはのるわ、プレステのエミュレータは走る。これは凄いことだよ。128000の機械でここまでできるんだからね。
 iMacそういう意味では意外に拡張性が高かったりする。ソフト的な拡張性がね。

 と、今日はここまで。
 ハッキリいって、あんまりかけないです。


 自分につまって書く事がない。
 体調は、こういうのにちょっと慣れてきました。






99.2.2
再考imac

 iMacは予想どうり大ベストセラーとなった。現在テレビで流れているCMもコンピューターをコマーシャルするものの中では、際立ったものである。メーカー名もなければ、商品名もない。マシンの画面は真っ暗。でも誰もが「apple」「iMac」「MacOS」を想像する事ができる。自信に満ちたCMだ。

 私は最近iMacが欲しくてしょうがない。買ってもいいと思う。けれど、いくつかの理由でかわないでいる。その理由とは・・・。いやその前にiMacの魅力とはなんだろうか。

 何がもっとも素晴らしいといえば、やっぱりデザインだと思う。これは秀逸だ。
 今までパソコンは「箱」にはいっていた。それがオブジェになったのがiMacである。どこから見てもシンボリック(特徴的)なアイコン。素材もざらざらとつるつるが微妙に混じりあっていてバランスがよい。正面から見ると意外に大人しいくせに、全体は心地よい存在感を持っている。
 よいデザイン、というより新しいデザインの発明。それがiMacなのだと思う。
 ちなみに蛇足になるが新しいpowerMacのデザインはイマイチの評価だった。私自身はあれはあれでよいデザインだと思うのだが(素材は嫌い)それがイマイチな評価なのはpowerMacのデザインが「発明」ではないからだと思う。

 スペックについてはUSBは問題ない。ただ今のiMacにはFireWire(SCSIにかわる新規格)がない。これだけが不満だ。はたしてiMacを使うユーザーがこのポートを使うかという問題はあるが、これがあると外部機器を接続するのが楽になる。個人的にはこれはつけてほしいと思っている。
 でも、例えばボクの2400というノートは、外付けCDを繋ぐ以外にはSCSIなんて使わない。そんなものだと思う。でもあれば安心。そういうこと。

 次期iMacはFIreWireを搭載するという噂がある。それがボクに今のiMacを買わせない理由だ。また、コンシューマーポータブルというiMacのノート版というのも登場を控えている。それがでてからじっくりマシンを選択するのもよかろうと思う。

 しかし、そういうマイナスを差し引いてもiMacはすばらしい。オブジェとして非常に高いレベルのデザインだと思う。好き嫌いはあるが、壁をひとつ飛び越えたデザインであるのは事実だ。

 あとは「必要か、そうでないか」ということだけである。
 しかしもはやiMacは家電だ。ひとりに一台ずつ、テレビ、ビデオ、iMacの時代なのである。多分。


 中島さん御夫妻。インフルエンザの具合はいかがですか。
 そろそろ沈静化しているようですが、お大事にして下さい。
 iMacについては上記のとおりです。先を見ると難しい時期だと思うのですが、常に買い頃を提示してるiMac市場ですから、困ったものです。






99.2.1
うまくやりたい

 めまいが一進一退しているが、まあいいや。

 こいつのせいでストレスについて、色々考えたが何に対しても「うまくやりたい」って考える事が、知らず知らずのうちにストレスになっていたのだと気がついた。
 けれども向上心って簡単にいうと「うまくやりたい」ってことだ。それを考えないってのもボクとしては困るのだ。

 でも、うまくやろうと考えない方がうまく行くことも多々ある。
 すくなくとも、そうかんがえないことがめまいの症状にはよい。それは間違いない。

 自然に「うまくやろう」と考えてしまう。そういう欲がある。
 でも欲あってもだめらしいが、欲があるのが人間だ。

 そのさじ加減が僕にはとっても難しい。
 それを確認する今日この頃。


 リハビリなんでまずは楽に







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