エッセイというもの
SNSへの嫌気がコップから溢れ出して。スマホで本を読むようになった。
立て続けに何冊か読んで。その中にあったヒコロヒーの「きれはし」を読んでいるうちに「なんか、そろそろエッセイが書けそうな気がする」という気持ちになった。
間違ってもヒコロヒーの文章が簡単と思ったとか、自分でそれくらいは書ける、と思ったわけではない。
ずっとエッセイにどこか憧れはあったけれど。そこまで長い文章は書けない、と思っていたのだ。
だから、週に2度書くブログでは、読み味が少しでも残るようにこだわった。50を過ぎたおじさんの500文字程度の日記。
ただ出来事を綴るのではなく、少し共感や、エッセイにあるような読み味が残るように。この数年はそう思って書き続けてきた。
思えばその年月が「エッセイを書きたい」というコップの中身を。少しずつ、満たしてきたのかもしれない。
日々の水滴はあまりに小さく。時折薄く蒸発しては、継ぎ足しを繰り返していた。この繰り返しでは「エッセイのコップ」は、死ぬまで水が溢れることはなかったと思う。
ヒコロヒーのエッセイが、どぼどぼと水を注いだ。一気に気持ちを溢れさせたのだ。
ヒコロヒーが生み出す文章は、どれも「エッセイってこういうものだよな」という魅力に溢れていた。自分が薄ぼんやり掴んでいた「エッセイ」の輪郭を、突然はっきりさせたのだ。
いつかはエッセイめいたものを書くだろう。ただ、今その力は自分にはないな、と思って。逃げたわけでもなく、とにかく短い文章に心掛けを注いで書いてきた。
ブログを縦書きにした頃に、いよいよ文章だけで読ませることを考えはじめた。
最近「ちょっとはマシになったかも」と思った矢先、ヒコロヒーのゲリラ豪雨に一気にさらされて。
私のエッセイのコップは、突然に溢れたのだ。
自分の気持ちに気がつき「何かを書かねば」と思いながらも。気持ちはあっても、手は動かないし、自分の中にある「書きたいこと」がはっきりしない。
ぼんやりしたイメージと、自分の中で肥大している「エッセイたる文章」の理想の間で。いつもの日記ならスラスラ動くその手が、ピタッと重く、動かなくなってしまった。
もういっそ、このエッセイを書きたくなった顛末を、まずは文章に起こしてみよう。それがはたして「エッセイ」と呼べるかどうかはわからないけれど。
書けばわかるさ。足りない文章なら、別にそのまま眠らせておけば良い。そう思って、ここまで文章を書いてきた。
そして。ひとまず、自分のエッセイカテゴリに残してもいいのではないか、と思い始めて、今この文章をまとめている。
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