親切は最小公倍数あればいい
今週はブログどうしようかなと思ってるうちに今年の最後。
なんとか無事に今年一年が終われそうで、一安心しています。
残り一日、流石に一安心してもいいよね?
いろんなことを日々考えるタイプの人間、という自覚はあるのです。
今年の後半は、特にいろんな新しい考え方やヒントが生まれてきたな、と思います。
とはいえ、それを忘れたり。また思い出したり、の繰り返しになりそうですが。
親切心というものは、あればあるほど人として正しい、ありがたい。
けれど、はたして。それって時に苦しいのではないかな?と思ったのです。
そもそも親切。これって誰にでも配れますか?という話。
例えばめっちゃ嫌いな人がいたとして。その人が困っていた時に。
「あ、この親切で助けられる」というシチュエーションで。果たして手を差し伸べられますか?
できることでも、感情が拒む。しなかったら、後でそのことを後悔しそう。
こういう苦しさを含むケースが、親切にはあるのではないか、と。
この頃、僕は「親切はそもそも人を選ばないもの」と定義し直しました。
困ってたらやる。それが誰であれ。
でも「火事で人が中にいる」みたいな時に、誰にでもそれをしなくてはいけないのか、と聞かれたら。
その必要はない。それは親切ではない、と思います。
親切とは「誰にでも気兼ねなく配れる最小限」の行為であるべきだと思います。
できることの最大値ではなく、誰にでもできるその人の最小値。
そして、その最小限が大きくなるなら、それに越したことはない。それが親切のあり方、ではないかな、と。
では「火事の中に飛び込む」みたいなケースは?と聞かれたら。それが妻や子供なら、きっとそうしたくなるのかも。
でもそれは親切ではなく愛情そのものだと思います。
親切は愛情の有無に関係なくできるもの、とも言えるのかもしれません。
ちょっとしたことに「ありがとう」「ごめんなさい」をきちんと言えること。
実はこれこそ、親切の最初の一歩なのかも。
