002-時々聞きたくなるなぁ。
まいど。
今、去年の夏頃に一生懸命聴いてたトルネード竜巻の「言葉のすきま」って曲を聴いてる。
すっごく不思議な曲で。個人的には人生でいつまでもきいてるだろう名曲。
適度な轟音と、不思議な感じのバランスがいいね。
で、なにより、歌詞がもってる芯の強さが好き。
君が愛をもっと知って
自分を愛せるなら
一人の夜なんて
もう、こわくないでしょう
伝えたいことはいつだって
足りないこというばっかりで
でもそうでしょう。
せつないのと、痛いの間をちゃんと言おう
この当たりの言葉がすごく好き。
恋と愛の橋渡しをしてくれるような、なんかそんな曲さ。
話は変わるが、最近母親の使っているコンピュータをMacにした。
理由は特にない。あるとすればうちの兄弟がMacが好きだからだ。
こういっちゃなんだが、前のXPでは、自分でとった写真をパソコンに入れることができなかった両親だ。
理由は分かっている。winの場合は、カメラをつなぐと
「フォルダを表示しますか?
写真を○○に取り込みますか?
印刷しますか?
etc…」
とにかくシステムが「あれもできる、これもできる」と質問ばかりしてるんだ。
色々できるのかも知れないけど「わ、わ、わ、何をするの?」で止まってしまっていた。
俺もその後に「じゃあこれを選んで、あれを選択して」なんて教えたくもないので
(これは手順が多すぎて、難しくなってしまってるのがかわいそうに思えてしまうので)
教えずに放置しておいた。代わりに俺のMacにデータは入れておいた。
それが、Macにしてから、とりあえず自分で写真の管理ができるようになった。
これはけっこう大きな一歩だ。
あれやこれができるのは結構なことだ。
でもそれは、パソコンに写真を入れてからでもいいだろうよ。
そんな意味ではMacは(iPhotoは)良くできていると思う。
そうそうインターネットを見るソフトもSafariにかわった。
つかっている母親がこんなことをいった。
「あ、今度は『お気に入り』は「ブックマーク」にかわっただね。また勉強しないとねぇ」
俺らにしてみたらこんな変更ほぼゼロに等しいんだけど、立場が変われば「勉強しないと」になるんだなぁ、としみじみ感慨深かった。
普通に勉強になりました。
と同時にやっぱり親も年をとるんだなぁと思った。
60までもう少し、頭の中の「一度に記憶できる数」はやっぱり少なくなっている。
でも頭はまだまだ回る。新しいやり方を両親ともに模索してるんだろうなぁ、となんとなく思う。
俺も家族として、子供として、環境として、なにかしらの力にならんといかんな。
一緒に新子やり方を模索していく部分も必要なんだろうな、と思ったりもする。
まーーー、もうちっとだけ仕事やる。
新しいことをいろいろやるのだが、まあ効率が悪い。
それが勉強になっていくんだろうけど。