冷静になれば、言い訳できそうな事象は増えている
いよいよ2025年ということで、今年で50歳だ。早生まれなので、同級生は既にその年齢に達した。
気がつけば早いものだ、という気分。それと別に、最近よく「人生100年時代」などとも言われている。
もう50歳なのか。それとも、まだ50年なのか、正直言えば、どちらの数字にも、それなりの嘘臭さを感じるのだ。
特に、人生100年時代と言われても。収入、仕事、それ以前にまず健康。脳みそもいつまでもつのか。
歳なりに考える事は変わると言うけれど。この50年の経験から、さらに50年を見据えるのは。なかなかの気分だ。
かといって「もう50歳なのだから」と思ってしまえば。新しいことや、未知なること。どれも億劫になってしまうのだ。
「今から初めても」という気持ちに、支配されたら。何もできない。
と、ここまでが話の前段。
そういう気持ちである程度過ごして。結局のところ「どんどんやるしかない」という気持ちで、今はまとまっている。
遺言書をお試しで書き始めて、そこで思ったことが大きい。
自分が死ぬことを直視して。「自分が死んだ後にも、世界は続くのだ」という、当たり前のことを認識したのだ。
自分が死んでも、世界は何事もなく前に進む。そう思うと「人生があることって、めっちゃラッキーだな」と思った。まさに「生きてこそ」
そりゃ、産み落とされてしまえば。この世界での苦労や念はあるのだけれど。それすらも、生きていればこそ、だ。
幸い健康だし、大きい病気も今のところ見つかってない。ありがたみのレンズを通して自分を見れば。キラキラした可能性と権利しかない。
だったら、後はやるのみじゃん。最近はそんな気持ちだ。
全く書ききれてない遺言書だけど。そういう気持ちになれただけでも、ものすごく良かったなと思っている。
更新 2025月01日06 08時39分