文章の最後が変わって
父が亡くなって。
名義変更とかカードの停止とか。暮らしの色んな切り替えに、色々と忙殺されている。
相手が日中のみの対応も多く、仕事の時間が減っていく。仕事の時間をどうリカバーするかは、深刻な問題でもある。
ひとまず、何とかできているけれど。本当に色々な手続きがあるな、と思う。仕方のないことだけど。
先日、父についての話し方が変わったことに気がついた。
「お父さんはこういう人だよね」が、今は「お父さんはこういう人『だった』よね」と話している。
父親を、常に過去形で語らなければいけないこと。それに気づいた瞬間。
「人がなくなるのはこういうことなんだ」
と、びっくりしてしまった。
内容は一つも変わらないのに、文章の最後が過去形になる。
こうやって少しずつ。その人がいない、ということが日常になっていくのだな、と感じてしまった。
亡くなって一ヶ月がそろそろの今となっては。その『だった』という文末にも慣れてしまった。
「さよならだけが人生だ」という一節がある。これは、小説家の美しすぎる言い回しだと僕は思う。
違う。「さよなら以外こそ」が、人生だ。
その人生が、思い出される度。全てが過去形となって現れる。
自分のかなり身近な人で、その言い回しが行われるのが。
慣れたとはいえ。まだ少し、心にざらつく部分があるのも事実だ。