文章の最後が変わって

父が亡くなって。

名義変更とかカードの停止とか。暮らしの色んな切り替えに、色々と忙殺されている。

相手が日中のみの対応も多く、仕事の時間が減っていく。仕事の時間をどうリカバーするかは、深刻な問題でもある。

ひとまず、何とかできているけれど。本当に色々な手続きがあるな、と思う。仕方のないことだけど。

先日、父についての話し方が変わったことに気がついた。

「お父さんはこういう人だよね」が、今は「お父さんはこういう人『だった』よね」と話している。

父親を、常に過去形で語らなければいけないこと。それに気づいた瞬間。

「人がなくなるのはこういうことなんだ」

と、びっくりしてしまった。

内容は一つも変わらないのに、文章の最後が過去形になる。

こうやって少しずつ。その人がいない、ということが日常になっていくのだな、と感じてしまった。

亡くなって一ヶ月がそろそろの今となっては。その『だった』という文末にも慣れてしまった。

「さよならだけが人生だ」という一節がある。これは、小説家の美しすぎる言い回しだと僕は思う。

違う。「さよなら以外こそ」が、人生だ。

その人生が、思い出される度。全てが過去形となって現れる。

自分のかなり身近な人で、その言い回しが行われるのが。

慣れたとはいえ。まだ少し、心にざらつく部分があるのも事実だ。



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勝又孝幸

株式会社データファーム

FileMakerシステム制作を中心とする「株式会社データファーム」という小さな会社の代表です。2007年から趣味で書いている日記を個人ブログとして現在も続けています。

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