ダイヤモンドは磨けば光る。
まいど。
今日も暑かったね。
昼に自転車で走りながら飯いったけど、いい感じの暑さ!
計算違いは3時にくるお客さんが、2時20分にいらっしゃったこと。
わー、その時、外まっただなか。
満月がきれい!っていうので外に出たら、空一面雲。
名古屋や東京は晴れてるのね…。
しょうがないので得意の妄想で、月をロックオン!
いえーい。気持ちのスイッチはいったぜ。
ワオーン。
先日自分のtwiterに書いたのだが、
ダイヤモンドは磨けば光る。炭をみがけばボロボロ落ちる。ダイヤモンドが炭になる。価値の変化とはそんなものだと思う。要素は変わらないのに、やはりどこかで劣化するのだ。と書いた。
昨日の町の話もそうだけど。
それに限らず、あちこちでそういう話があるような気がする。
自分のことにしても、だ。
言うまでもないが、ダイアモンドも炭も材質は同じ。
炭素の固まりだ。だから素材(要素)は変わらない。
変化が気付きにくいのでは?って思った。
自分の価値観や大事にしている事も、同じような事がないか?と思う。
自分の大事なものはこれ。
この価値観は大事にしている。
そういう
自分のダイアモンドが、気がつけば炭になっていたってことに気付けなかったら。
ちょっと怖いな。できる限りそうならずに済ませたい。
自分の枠で考えない。
批判する相手を尊重する。
相手の言葉に耳を傾ける。
自分の気持ちだけで走らない。
自分の中の自分の声を聴く。
最後は自分を信じる。
そして、
「自分を信じる自分」を信用してくれる相手を信じる
なんか言葉遊びになっちゃったかな?
でもほんと、常に自分の枠の向こう側に目をやっていること。
相手の立場で話を聞こうとすること。
なんつーんだろうね。
相手から、周りから、自分はどう見えるのかを踏まえていないと、ダイヤモンドが炭になっても気がつかない気がする。
と、ちょっとふわっとしておりますが…。
ま、日記だし。勘弁してちょうだい!
ということで。
さくっと終わり。(さくっとしてねぇ?)
おまけでバンプのダイヤモンドを。
タグ【ダイヤモンド】
っと、この文章自分で読み直して。
ふと昔の文章を思い出したので、ここにひっぱりだしてみた。
なんとなくつながるものが、あるような。
98年なので‥35-12=23
23歳の時の文章ですか。
98.5.2
水は狂うのだろうか?
いやな日が続くと、誰かに当たりたくなってしまう。守ってくれる人にこそなお当たりたくなる。傷つけたくなる。そしてそんな悪行のすべてを許してほしいと思っている。
甘えである。
ただ、実際にはそうはしたくないと思っている。そうしてしまう自分は寂しい。そしてやはり大事な人になど当たることはできない。だからそんな時、むかついた気分で物に当たる。叩く、揺らす、ぶっ壊す。
とにかく、感情のない物にやつあたるのだ。
先日も少しむかついたことがあって、少し鋭い気分で、そしていらいらの棘が心のあちらこちらから突き出されたまま、家にたどり着いた。
玄関をあけて、靴を半分脱いだまま冷蔵庫を開けて水をがぶのみした。ぐいぐいと飲み込むうちに少し気管の方に水が入って、むせてしまった。
「なんだ、このやろう」
と、思わずむかついてしまったのだが、今思い出して考えるのだ。
水にだって感情があるかもしれない、と。
たかだかペットボトルに入った水だが、揺れる度に喜んでいるのかもしれない。怒っているのかもしれない。冷蔵庫に入れば「寒いぞこのやろう」とか思っているのかもしれないし、「冷たくて気持ちいい」と思うのかもしれない。
自然に怒る雨や嵐、川の洪水。実はあれは年に何回かの水たち祭りなのかもしれない。彼らにとっての非日常の中で、水達は狂っているのかもしれない。
流れが川を作り、土を削る。もしかしたら水が月をそそのかして、引力をつかって波を引き起こしているのかもしれない。
水に感情があるのか?
それは誰にもわからない。
僕が他人になれないように、僕らは水にはなれないのだ。
ただ、僕が人を思うとき、おぼろげに他人を想像し、他人の気持ちになろうとする。理解しようとする。僕らは、おぼろげになら他人になれる。
そうやって水を想像する。水の気持ちになろうとする。理解しようとする。おぼろげに水になってみて・・・
水に感情はあるのかもしれない、とも思える。
水は狂うのだろうか?と考えることができる。
自分でいうのもなんだけど
もしかしたら水が月をそそのかして、引力をつかって波を引き起こしているのかもしれない。
っていう視点、けっこうきてんなー。
今この感覚はもうないなーって思う。