子供は、というけれど。

朝日記をできるだけ書こうと持っている。義務感で書く必要はないのだけれど、かといって続けないと習慣にならない。習慣にしたいのだ。そうなると内容はさておき「まず書くことが大事」となる。義務感でなく「やりたいこと」として、とにかく手を動かし続けるには。これ自体に大人の言い分というか、学習や利益化したい意図が多分に含まれているがするけれど。その辺りの純度は気にしない。不純な大人だから。

小学校4年生になったうちの子供。「うちの子供は」って主語で話をするけれど、ふと「子供としての純度はどれくらいだろうか」と気になった。小学校初日は学校までついていった。心配だったし、無事に帰って来れば「よく帰ってきた」と思った。小学校4年生になって、だいぶ体ががっしりしてきた。学校に無事に行けるだろうか、なんて心配はしない。成長している。大人のかけらみたいなものが徐々に増えている。それでも主語は「子供は〜」だ。大人と子供が入り混じった曖昧な状態を表現する、出世魚のような言葉がない。いっそのことブリの名前を借りてみようか。「うちのイナダは〜」みたいな。いや、他人に伝わらない。

「小学生」「中学生」という言葉がそれに近いのかもしれない。でも違う。これは所属とかラベルの類だ。社会性の呼び名であって、内面のマーブル模様を表す言葉では到底ない。その言葉があったら便利だな、と思う理由は単純だ。「子供」という主語を使わなけければ、大人が子供を「子供扱い」しなくなるだろうから。親はどこかで子供に依存している。子供は少しづつ「子供でなくっている部分」を、大人にわかって欲しい。その解決方法を出世魚は知っている。いや知らないか。出世魚自体は、自分がなんと言われてるかも知らない。出世魚の名付けの仕組みを人間は発明した。その仕組みは人間こそに必要だと思うのだが、今現在、人間には活用されていない。


更新 2021月04日30 16時13分

関連記事

この記事のハッシュタグに関連する記事が見つかりませんでした。

勝又孝幸

株式会社データファーム

FileMakerシステム制作を中心とする「株式会社データファーム」という小さな会社の代表です。2007年から趣味で書いている日記を個人ブログとして現在も続けています。

最新記事

カテゴリー

アーカイブ