口の悪さに徳はない

暴言をTwitterやライブ配信で吐いて、炎上して思ってもいない不利益を被るというのが最近目立ちますが、最近では口の悪さというのはメリットが一つもないと思っています。タバコが健康に良いことが一つもないのと一緒です。タバコを吸ったことはないのですが。

自分は言葉遣いが丁寧な方だと思います。主観で見ても、客観的に見ても。コンビニでレジでの受け渡しでも頭を下げますし、努めて細かな感謝を表現しそびれないように心がけています。それらは「常に謙虚を意識して、自分の態度が傲慢にならないように」と自分が思っているからです。

一度若い時に思いっきり汚い言葉を強く使い、かつ自分を上の立ち位置から「舐めるなよ」的なことを言ったことがあります。相手に追撃をさせなくらい、強く圧倒的に言葉を使いました。その後に相手に改めて申し訳なく思い、そういう自分にものすごく後悔した記憶があるのです。

元々そういう言葉を使う人間ではなかったのですが、それ以降いよいよ「汚い言葉遣いをしないように」と心掛けるようになりました。そういう経緯もあり、本来的には「自分は言葉遣いの汚い人間」だと思っています。

ちょっとしたユーモアのつもりでも、悪戯やギャグのつもりでも。汚い、悪い自分の言葉遣いで会話が成立するのは「自分が強いから」ではありません。それを受け取る相手が寛容で、大人で、空気を読めるからです。

あるいは相手が弱い立場だった場合としても。言い争う勇気以上に「その場を荒げたくない、自分の強い感情を使いたくない」という優しさの部分が働くからこそ、争いもなく平穏に終わります。

つまりは汚い言葉でも場が荒れずに平穏なのは、自分の力や立場によるのではなく、最終的には周りの配慮によるものです。

汚い言葉のコミュニケーションが成功してしまうと、それは自分だから許されている、自分に力がある、という勘違いにもつながります。そうではありません。周りのおかげです。周りが幼稚なコミュニケーションを許してくれているのです。評価すべきは周りの方の配慮であり、自分自身ではありません。

汚い言葉遣いにはリスクしかなく、それを使うこと自体を避けるべきだと思います。今現在もそうですし、特に未来になればなるほど。

汚い言葉遣いにも歴史も味もある(やくざ映画や任侠映画など)も十分に理解しているつもりですが、エンターテイメントの世界でも敬遠されているくらいですから、現実の世界でであれば、なおさら使うメリットがないのです。

では逆に。丁寧な誰も傷つけない、ぺこぱのような心掛けの言葉遣いは、どうしたらいいのでしょうか。そこは敬語が便利な道具になると思います。敬語自体の成り立ちも、身分や立場の上下を成り立ちにした言葉遣いですから「古い、今の時代にそぐわない」という意見もあるでしょう。

それでも。誰が聞いても「敬語を使っているな」と分かるのが、ツールとしての敬語の良さです。敬語を覚えて使うことには明確なメリットがあります。

本質的には「敬語を使っていればいい」ということではありません。道徳、メンタル、社会性の持ち方。人として何を考え、意図して言葉を使うのかというのが本質的な問題です。

とはいえ我々はいつも未熟で、いつまでも完成形というものが見えてきません。自分の成長のためにも、まわりに余計な棘を少しでも減らすためにも。汚い言葉遣いを遠回りするために敬語を意識して使うというのは、効率的で現実的な手段の一つだと思います。

なにより「そうあるように言葉遣いを気をつけている」というその人の心がけ自体に価値があるのです。そういう観点からみても、口の悪さに得もなければ、徳もありません。


更新 2022月02日18 11時51分

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勝又孝幸

株式会社データファーム

FileMakerシステム制作を中心とする「株式会社データファーム」という小さな会社の代表です。2007年から趣味で書いている日記を個人ブログとして現在も続けています。

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