いじめと友達の話
まいど。
今ものすごく寒い。
ちょっとびっくりしている。
さて。たまにはきちんと日記を書きたいな、って思って。
ふと思いついてしまったのが「いじめ」の話。
3月のライオンの5巻を読んでいたからかな。
あるいは「スクール」っていう漫画を見ていたからなのか。
「こうあるべき」なんてものは一つもないけど。
自分が今現時点で思うところを書こうと思う。
■いじめは良くない。けど、いじめはなくならない。
当然だけどいじめは良くない。
それが原因で若い命がなくなったり、未来がかげったりするのはとんでもないことだ。
だからいじめはなくさないといけない。
でもそれもまた正直無理だと思う。
戦争はよくない、というのと似ているのかもしれない。
良くないけれど、どこかで今日も戦争は起こっている。
人間がどれだけ頭が良くなっても、結局動物の延長線上にいることは間違いない。
モラル、正義、こうあるべきという目標やルール。
それらと別のところに人間の本能はあって、それは動物のものと基本一緒だ。
人づてに「動物社会におこることは、人間社会にもすべて起こり得る」っていう生物学の話を聞いた事があるけれど。
俺もそう思う。
人間の向かうべき方向は「いじめがない社会」だけれど、人間が地に足着けている場所は「動物の世界」の延長だ。
どちらかだけを論じないで、現状を把握する事はできないんだと思う。
結局「あるものをなんとかする」しかないのかな。
大人として(私は結婚もしてないし、子供もいないが)そんな答えでいいのか。
正直ちょっと迷う。
■理不尽な現実は突然誰にでもある
いじめをもう少しだけ俯瞰の目で見たとき。
これって
理不尽な現実のワンシーンなんだと思う。
急に事故になったり、病気になったり、と同じように。
自分に理由がないのに、急にいじめられる。
いじめる側からいえば「これが原因で」ということもあるのだろうが。
特に子供時代の理由などは、そもそも理由になりもしないことも多い。
自分も「太っている」ってことで小学校の時にいじめられたが、太ってる事で他人に迷惑をかけた覚えはない。
いじめがスタートするのは「理由」よりも「きっかけ」なのかもしれない。
きっかけにないやすいことには、いくつかルールがあるんだろう。
いじめられた記憶は特に痛みもなく普通の思い出になってるんだけど(そういう部分はタフかもしれない…)
最近思ったことがある。
それは、
いじめられる人のほうが、客観的(あるいはやさしい)「かもしれない」ということだ。
これはあくまで俺の主観です、っていう断りをいれておきますが…。
いじめられた時に、
なんでそれを言わないの?って話があるけど。
ホント最近気がついたのだが、そういう人は優しかったり、頭が回るって場合もあるのではないかな。
「いじめられてる事を親が知ったら迷惑がかかる」とか「自分には何かいじめられる原因があるのかもしれない」とか。
誰かを思いやる事で我慢してしまったり、あるいは考えが柔軟すぎて(上手すぎて?)反発できないケース。
これは自分を照らし合わせてみても、あるように思う。
そういう気持ちを持てる人。
それは
やさしさの素質がある人なんだと思う。(自分でいうのもどうかと思うが)
でもその優しさは、気持ちの柔らかい部分だけでは成立しない。
それ知ったのは俺は成人してからだった。
子供時代にそれに気付くのは難しいと正直思う。
とはいえ。優しさの素質は生きていてこそ開花するわけだから。
いじめられているその人にとって、いじめが解決すべき問題なのは、当然のことだ。
■全然話が変わるけど、友達の話
ここですいません。話を一気にかえます。
(どうやっていじめを解決するべきか、を論じてないのが無責任かもしれないけれど)
俺の友達で30歳で失明した奴がいる。
そいつが一昨年かなぁ。年末忘年会に来てくれて、
俺はパラリンピックに陸上で出たいと思っているってゆってた。
確かに高校時代陸上部だったけど、そんなに突出した成績ではなかった。
当時は「そうしたい」って決めたばっかで、伴走者もこれから探す、って言っていた。
年に一度か二度会うくらいなので、「目が見えなくなったんだなぁ」と他人行儀な気分になる時もあったけど。
でもまあ友達なんで。普通に接しているのは当然で。
先日地元のニュースを見てびっくりした。
その友達が、
陸上障害者競技200mでアジア3位になっていたのだ。
正気吹いた。吹いちゃいかんが、それぐらいびっくりした。
もう、パラリンピック出れるじゃん!って思ってしまった。
新聞記事の彼はやっぱり「パラリンピックを目差す」といっていた。
順調にいけばそれは目の前だ。
仕事の方もすごく頑張っていた。
目が見えなくなってから針やマッサージの勉強をしていたのだが、そのうち
針やマッサージを教えるほうになりたいって言っていた。
覚えるだけでも大変だと思うのだが、教えるほうは更に難関らしい。
彼はその試験にも合格して、今先生になるべく大学で勉強している。
こういっちゃなんだが、目が見えた頃の彼は全然違った。
「飲み屋のねーちゃんがさー」って言って、ほんとくっだらないこともしてた。
そこに理不尽なトラブル。
さらにそこから、より人生に集中した彼。
こんど会ったらいろいろ話をして聞いてみたいと思う。
今に至るまでの彼の心境を。
■理不尽があってもなくても現実は目の前にあって、対処しなければいけない。
いじめは人が関わる事だから、憎悪や感情をぶつける相手が存在する。
そこには相手なりの言い分もあるだろうし、はじまってしまえば「どちらが悪い」といえなくなってくるから、やっかいだ。
それ以外にも病気や事故。それらといま戦っている人もいる。
幸運にしてそれらがすべてない、という状況でも。
「今のままでいい」ということはないだろうと思う。
結局人は常に、現実に対してどっか挑んでいるのだと思う。
それらを解決するために、いろんな人の智慧や力を交換できるようにする。
ありきたりだが、それはとっても大事なことだ。
その道筋が閉じていたり、あるいは自発的に閉ざしてしまったりすると、いじめに限らず状況は常に悪化する。
自分以外とのつながりが豊かになるかどうか。
それはその人の態度次第だと思う。
閉じているか、開いているか。
抽象的だけど、そういう部分がとっても大事。
開いている人達がいざ集まれば、なにかしら息つぎする方法や、
あるいは、解決できなくても回避する手段は見つかるのではないのかな。
それが大人ってことではないのかな、と思う。
いじめの話にも答えがないし、友達の話もある事実を書いただけ。
ただそれだけで、まとまりがなくて申し訳ないんだけど。
子供だろうが大人だろうが。現実は常に目の前にあって、時に理不尽で。
自分をつかってでも、人をつかってでも、
なんとかするしかないと、そんな結論しか出ないなぁ、と思っています。
たださ。
自分が安全地帯にいるから、大丈夫ってさ。
人生そういうものではないとは思うんだよね。
歩みをとめる理由は、自分としては、まだないからね。
未熟だし、したい事もあるし、したくてもできてないこともあるし。
今のまま終わったら、すべてがちゅうぶらりん…。
タグ【長いざれ言】
追記:
自分の場合、いじめがどうやって解決したかって話。
これは書いておいたほうがいいよね。
結局いじめがどんどんエスカレートし、当時担任の女性の先生がすごく真剣に怒って、学級会を開いてくれました。
そこで「いじめがいかによくないか」という話を本当にしてくれたよう思います。(もう昔の事なので)
その時間でみんなに「いじめ=おふざけの延長ではない」ってことがきちんとみんなに伝わって。そういう空気になるといじめている彼らの行動ってすごく「いけないこと」に変わるんですね。周りの空気が。
それがきっかけで、確かきちんといじめをしていた二人が俺に…謝るように先生がしてくれた気がする。なんにしてもそこからだんだんいじめは沈静化しました。(その後友達になった)
結果として「大人の真剣さ」が僕を助けてくれたんだと思います。
大人がしっかりと力を貸してくれた。
俺は小さい頃から水泳をやっていて。体育が苦手でも水泳だけは学年でトップクラスで。そういう「突出できる事」があったことも大きいと思います。いじめる子達が「褒める事ができる(認めやすいポイント)」があることでその後がスムーズになった………かも。
でも当時はざぶとんは用水路にすてられるし、ひどい時はノートの間にマヨネーズをばーーってやっちゃったりね。いじめる子達は浮かれてるからそのあたり、もうネジが馬鹿になっちゃってるでしょう(笑)それは子供心には苦労しました。それってやっぱり親に言えなかったもん。申し訳なくて。
まあ、今は日記のネタですけどね。ははは。
更新 2011月01日26 21時30分