言葉と心地
まいど。
今日はまた寒いね。ストーブをつけているよ。
言葉の使い方、吐き出し方ついて、昔からおもうところと、ちょっと気がついた事があるのでさくっと書いてみる。
基本的に言葉はストレス
だと有るときから思うようになりました。
相手にとってどんなに有益であっても。基本でいえば言葉はストレス。
人間はなんだかんだいって「自分勝手に生きたい」という部分があって、他人の意見というのはそのリズムを崩します。
そして相手とは「自分でないもの」
だから、ほんと言葉はストレスだなって思うのです。
言葉のとげを「丸くする」
言葉をストレスと割り切ってしまうと「じゃあどうやってそのストレス度合いを下げるのか」ということに舵を切る事ができます。
言葉に対して油断しなくてよくなります。
相手にとって言葉の持つストレス(とげ)をいかに丸くするのか。
どうやったら相手のストレスを軽減できるのか。
そう考えたときにはじめて「相手」が見えます。
人によってどの表現が「苦痛」でどの表現が「好ましい」かはそれぞれ違います。
また同じ人間である以上「最低限これだけは踏まえておいた方が良い」ということも、なんとなく蓄積されてきます。
比較的普遍的なものさしと、その人その人だけの物差し。
これを発見したり、ブラッシュアップしつつ組み合わせるのが「めんどくささ」を含んだ言葉のやりがい。
つまりはコミュニケーションだと思うのです。
やりとりの気持ちよさ=心地の良さ
そうやってコミュニケーションをしていくと、だんだんに気心が知れて行くと言うか。
やりとり自体を楽しむ空気が出来てくるんですよね。
「ここはもうちょっと表現のとげを取らなくても、OK」とか。
受け止める側も「ここはもうちょっと攻めてきてもOK」とか。
それによって「言葉が深く刺さる=相手に届くようになる」ということもありますが。
それ以上に「凹凸」がぴったりフィットする、というような心地よさ。
コミュニケーションにそれが生まれてくると、その人達だけの、あるいはそのグループだけの見えないルールみたくなってきます。
それが「その人達の強さ」だったり「グループの個性」だったりするのではないかな?
身に付くものと身に付かないもの
いつからか分からないのですが。
個人的に「身に付くもの」の方が好きなんですね。技術とか考え方とか。
それに対して「身に付かないもの(=まわりもの)」には、同じような興味を持てない自分がいます。
どちらが良い、悪い、ということでなくてね。
例えば地位や名声、お金などというのは「身に付かない(まわりもの)」の部類ではないかなぁ、と思うのです。
言葉に情報を載せるとき。
たとえば相手にとって「良い(有益)な情報」だったら、有利な態度をとったり、目線が上になってしまったり。
逆に相手にとって「悪い情報」だったら、及び腰になったり、卑屈になってしまったり。
気持的にはそれはすごく理解するし、自分もそうなりますが。
それでも、それって「身に付かないもの」で自分の表現手法が左右されてる」ことだと思うんですね。
それは違うのではないかなーという思いがあります。
あるいは情報の善し悪しで自分が油断したり臆病になったりするのは、ちょっと不用意なのではないかな?みたいな。
ちょっとうまく言葉にできませんが、そんな思いがあるのです。
言葉のやりとりは「心地」+「情報」
とはいえ、言葉にのせるのはもちろん情報なので。
どっちが先かと考えると。
まあ、言葉の器に情報をのせて、それ全体のやりとりを楽しめたら、コミュニケーションや言葉のやり取り自体がゲーム用に楽しくなるし、隙間からまた新な発見がうまれてくるのかなー、なんて思ったりしてます。
ってか日記長いな。
更新 2012月04日11 10時18分