自分のために書いてるけれど、人が面白くないことを書きたくもない
エッセイっていうのはそのあたり上質だと思う。その人の良しなしごとが語られながら、読んでるこちらもそのことが気になったり嬉しくなったりしてしまう。そういう文章を書きたいなと思うので、またブログをやり直しているのだ。
浅草のとんかつ屋の松浦さんの競馬エッセイなんか、その最たるものだった。静岡にいる学生にとって浅草の知らない人々のやりとりや、語られる浅草の空や空気。インターネットのない時代には言葉がいろんな物事を運ぶ船で、僕らはそれを想像力で、元の形に戻そうとしたり、ふくらめたりしていたのだ。
今は時代がかわって、音声でも映像でもいろんな形で、しかも一瞬で届く。想像力よりも共感力や関心力の方が必要な世界になってきたのかなと思うけど、心のうちをそのまま伝える道具は未だ世界に発明されていないのだ。
過去の人たちの心情や情報を、僕らは言葉で知る。いくつもの言葉を荷解きしてきた。その経験までも道具に含めて、僕らは言葉を綴る。音声でもいい、テキストでもいい。僕の場合は今のところはテキスト。こいつの使い方をもっとうまくなりたいし、頭に追いつくようにタイピングももっと早く正確になりたい。
昨日人間ドックにいってきたのだけれど、併設したリハビリセンターの周りを、苦しそうに何周も年寄りの人が歩いていた。老いは避けられない。歩くのが大変なのは、人生で体を使い切っている、とも言えるだろう。そうなったらそう考える。でも最後までできるだけ大事に時間を楽しめるように、体を大事に使いたい。それは頭ついてもそうだ。
最期までこんなことを考えて書いて。できればとど届けられるように。そうあるように日々を続けたいなと思った。
胃カメラはきつかった。えづいた。
更新 2022月02日08 08時52分