増えるソーシャル、練れない言葉。
まいど。
今日はあつかったけど、今はもう寒い。
騙しあいみたいな気候の日々。
増えるソーシャル
Facebook、Google+、mixi、そしてブログ。
発言するべき場所が、どんどん増えている。
まあ、はいってもやらなければいい。見てるだけでもいいんだけど。
ちょっと真面目に(?)やりはじめると、見るのも言うのもホントおいつかない。
完璧にやり切ろうとすればするほど、どんどん言葉の数が増える。
そうなると「軽くなる」のかな、言葉が。
そんな風に思う。
「思う」はきっかけ。「考える」が意見
最近とくにそんな風に感じた。
「思った」らすぐに「tweet」する。あるいは、書き込む。
このルーチン、スピードが駄目にしてるものが多いのでは?って思う。
思った事は自分にとって本当に正しい事なんだろうか?
本当に「それが自分の意見」なんだろうか。
それは違うんだなーってふと思うこの頃。
思った事を「検証する」「考える」ことによって整ったもの。
それが「意見」だ。
自分の中では「思ったこと」は軽く(つぶやきだね。ほんと)「考えたこと」は人に責任もって伝えてもいい、ってことだと気がついた。
なんだけど。でもね。これは世の中では違うな、って思う。
っていうか、仕組みがそこに絡むと違ってくる。
言葉は外にでた瞬間、責任が発生する
当たり前だけど。当たり前だけどそういうこと。
でもって一昔前は「思う事」なんて人に聞かれることはなかった。
それが「ソーシャルっていうのぞき穴」がでてきて、見られるようになった。
そうやって外に漏れ出す言葉の数々。
それらは全部「責任」が発生してしまう。外に出た、ということだけで。
あらためて事の重大さはここにあると思う。
性善説で発言は公開できない。
twitterについて、私は「思う事をのぞき見できる、気軽なメディア」だと思っている。
でもそうやって使えたのは最初の頃だけで、ブームになったら「メディア」と扱われるようになってしまった。
俺の中では「のぞき見したい人はみてもいいよ」くらいのものでも、今は「発信してる」ということになる。
こうなってくると、SNS等に対して「性善説」で望むのはリスクが高すぎる世の中になったなと感じる。
だから「思う」をそのまま「自分のノートに書くように書いてはいけない」な、って思う。
SNSをやればやるほど、言葉は乱発しがちになって、そればかりが広がって行く
ということで。
SNSが増える→まじめにやって発言のスパンが短くなる→発言が「考え」でなくて「思い」の乱発になる→誤解や面倒に巻き込まれる事が増える→責任の認識が違う事に気がつかない→もめる→疲れる
というサイクルができそうで非常にこわい。
なので。SNSが増えれば増えるほど。
頑張ってやらなくていいと思う。真面目にやらなくていいと思う。
そんな風に考えるようになった。
非公開のtwitterがあればな、って思ったが、まあそれならテキストファイル一枚あればいい。
結局原点にどんどんもどってきているそんな今日この頃です。
「思い」を「考え」にして、それを「実現」すること。が僕のしたい事。
「思い」ばかりを表明しても意味がない、って思うようになった。
(ブログはまた別。文脈考えて一応書くし。)
更新 2011月09日30 20時42分