議論のゆく先は「決定」
まいど。
ちょっとさくっと日記をこんな時間に。
議論自体の価値は少ない
最近突発的な会議がちょっとしたことであるのですが。
それを体験して思うのは「結論を先送りするには、それそうおうの理由が必用」ってこと。
基本的に議論するのは「問題があるから」だと思うんだけど。
それに対しての「決定」が決まらなければ、議論した時間の価値は「ほぼない」と思う。
(ホントはまったくない、と言いたいくらい)
決定(結論)を出して、はじめて議論の価値が決まる。
やー、もう当たり前の事なんですけど。
でもね。あらためて。
結論がでて、初めて議論した時間が報われるし、未来がちょっと変わる。
あるいは良くなる可能性が芽生える、のだとほんと思う。
人生をあくせく急ぐ理由はないが、それでもいろんなことに締切はある。
だから、一つ一つの議論の時間には「これについて決める」っていう小さい目標は常にあったほうがいいし、それを皆が意識慰する必用がある。
これほほんと「義務」だと思う。
結論に向かわない議論は、重複した現状確認や、環境批判になりやすい。
議論は絶対的にコントロールが必用で。
それを皆でやるのか。あるいはディレクション的な存在(議長)を入れるのかってところになる。
とはいえ議長がやるのことは「結論への正しい導き」であることが多く、一人一人がしっかりそこを意識してればそれほど必用はない(とはいえ、そうもいかないのが現実なので、だから議長が必用だったりする)
結論を意識しないと、どうしても人は感情の生き物だから。
「これが問題だ」と同じ事をなんどもぐるぐるしたり、あるいは「あの人が悪い」「こういう状況さえなければ」という環境批判になりやすい。
うーん、きもちはわかる。
でもそれらは「なにそれおいしいーの?」レベルで、問題解決の役に立つ事は少ない。
環境批判的なものは、なんだろね「議論してる風」「がんばってる俺」でしかないことがほとんど。
これらで埋まってくると議論は結論を見失うし、そうならないために結論を意識する必用があると思う。
まー、ほんと。
最近おこったことの「具体的に書けない感じ」があるのでちょっとあやふやだったらごめんなさい、なんだけど。
(ちなみに仕事、友達関係の話ではないです。ほんと狭い話なので、皆さんの事を具体的に1mmも指してません)
でも逆にいえばね。私文句をいいたいのではなくて。今気がついたんだけど。
「正しい議論は、未来に変化を与える力がある」ってこと。
これが素晴らしい事なんだと思う。希望ですよ。
とはいえこれも「結論(決定)」が出てはじめていえること。
議論のための議論は、体力も感情もすり減らしてしまいますので、ほんとそれは他人のためにもしちゃいけないな、と感じております。
さて、しごーと。
更新 2012月08日04 16時40分