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99.8.26
彼女の唇がさよならというのは

 日にあたるのが下手な下宿の窓を開けて、そのことがおかしくなって笑ってしまった。日当たりが下手くそな部屋。その不器用さは僕にもあった。
 自分をうまく伝えられないことを、自分で解決できなかった。彼女の協力も得られなかった。何か口を開くことができたら、僕の心を引き上げてくれるつもりだった。きっと彼女は。
 伝えるべきだった。何でもいいからまずは何かを。でもできなかった。
 部屋を笑うふりをして、僕は昨日の僕を笑った。

 なにもなかった。
 動くものも動かせない僕の不器用さだけが目立った夜は、彼女にこれからのことを想像させた。
 そして彼女は、僕等のこれからについて、さよならで蓋をした。

 日差しが部屋に差し込む。
 終わったことだけがまぶしい。


 フィクション。
 終わりものが多いな。俺。暗いんだろうか。






99.8.25
発色する言葉

 「おはよう」
 この言葉にどれだけの色を付けられるのか。それが発信者の宿命だ。言葉は誰かに向けて作られている。言葉は何かを伝えるために発明された。僕が君に何かを語るなら、僕は君と繋がりたい、ということだ。
 伝える事が簡単なものは、それが息づいていないからだ。
 「タバコ一本」
 こえだけなら、たやすく伝わる。

 息づいた物事は、俄然正しく伝わりにくい。今日この時しかない空の青。自分を励ます、雑然とした町並。流れた彼女の後ろ髪は、夕焼けの橙に先だけ染まっていた・・・。
 そしてその時の感情。これはよりいっそう伝えにくい。

 「僕は彼女が好きだ。」
 内容はこれだけで伝わる。でもリアリティがない。言葉は何かを伝えたいのだが、その正体はリアリティに他ならない。タバコ一本というリアリティ。それだけなら「タバコ一本」で十分なのだ。でも感情を伝えるには、同じ様なそれでは足りない。

 漠然とした感情をリアリティをもって表現する。ならば、自分がそう感じるにいたった具体的な物を表現すること。それを積み重ねていかければならない。漠然とした表現に納得できるだけの説明が必要なのだ。自分がそう感じるまでに通過した物で、自分を説得した物だけを表現に変えるのである。

 それが、言葉にリアリティを与えるということである。
 そして、リアリティをもてば、言葉は自ずと発色するのだ。


 具体例を書いたのですが、あまりにはずいフィクションなので取りやめました。
 今日の証明をこのページで積み上げていければいいなぁ、と思いますね。できれば。






99.8.21
集団ということ

 会社生活をしてみて身にしみるのは良くも悪くも「集団」という単位についてです。集団がうまく機能すれば個人以上のエネルギーを生み出すことができるのですが、うまく機能しなければ個人の足を引っ張るのです。「身にしみる」と書きましたけれど、上手くいっているときは得てしてそれ自体が気にならないもの。なかなかうまく機能しない。それが一般的な集団のようです。私自身それにかなりやられてるって感じです。
 集団がうまくいかない原因は、集団が個人からなりたっているためです。個人とはエゴの塊。ならば集団はエゴの集まり。うまくゆく訳ありません。
 ですから、集団に参加する個人は「個人+1」という態度で集団に参加する。集団を形成するべきだと思うのです。会社という集団を見た場合は、「利益を出す」という+1が必要です。
 この「+1」を常に意識していければ簡単なのかも知れませんが、なんてったって人間ですから、時間がたてばだれて「+1」を意識しなくなってくる。それよりも「個人」の「エゴ」が顔を出してくるものです。

 で、俺が疑問なのはその顔を出してきたエゴに対して、対処するのは「個人」なのか「集団」なのか、それとも「善意の第三者」なのかってこと。

 俺はどう考えても個人が対処するべきだと思うんだけどね。でも集団っていうのは責任は個人にはないわけ。あくまで見えない「集団」に責任があるわけ。グループが責任問われるわけであって、決して個人には責任は求められない。そういう大人の保育器みたいなところがあるもんで(日本だけだと思うんだけどね。こういうの)集団の中で動くのって大変。「+1」の共通意識なんてあっというまにどっかいっちゃうし。
 その中でまじめな人が「善意の第三者」ね。なんとかしようと金ももらえるわけでもないのに動き回ってくれる人ね。で、こういう人がいる「個人」の「エゴ」をこの「善意の第三者」に解決してもらおうと考えるのね。ずるいよね。ホントは。
 で、その善意の第三者の力が及ばないと、その人の「やり方」が「足りない」ってことになるんだよね。でもさ、ボランティアで動いている人に、それは汚いとも思うよね。
 確かに集団が積極的に効率的に動くことはできなかった。善意の第三者の目的は達成されなかった。善意の第三者にもっと力があれば、善意の第三者の目的はかなった。彼の思い通りになるはずだった。目的遂行という意味で、彼が足りなかったのは事実。
 でもそういう第三者の力量の問題がね、集団がうまく行かないと根本的な問題といったら違う。

 最初の話になるけど、集団というのは個人の集まりなんだから、個人の問題は個人でまず考えるべき。で、力が足りなかったら善意の第三者の力を借りたり、集団から力を借りればいいわけ。その根本ができてない集団で動くのもつらいっす。ああ、愚痴っす。今日は愚痴ッスよ。

 まあ、なんかどうでもいいこと書いてるけど。ま、個人個人がしっかりしていれば問題ないけど、そう行かないのが世の中で、理屈が通らないのが世の中だからね。僕のいる世界はそこがスタートラインだから。もっともっとうまくやる技術、集団の中で合理的に僕のエゴを集団のエゴに買えていけるようなテク、力があればいいんだけれども。そういうのを否定してきたのが俺なんで、どうもなかなかうまくいかない感じ。それにもうちょっと理屈が通るようにしたいってのが、ぶっちゃけた話おれの願望みたいだし。

 ま、どういうゴールをするのか俺もわからんけど、でもまあそんな感じのスタートラインだしね。もっともっとずるがしこく、要領よく、っていうか固い頭を柔らかくして動いてみても、そういう自分に挑戦してみるのもいいんではないかとも思う。自分じゃない自分を、蛇みたいに丸ごと飲み込んで、違和感バンバンに出しながらも、スマートに消化してしまいたいという願望。あるある。

 もうちょっと大きくならないとなぁ。善意の第三者の自分、よー。


 愚痴でーす。
 実家に帰ると、「頭固い」ってよくいわれます。
 そうじゃないと思うけれども、そうなのがわかりました。あーわかりましたよ。昨日ね。






99.8.14
emptyhouseはしばらくお休みです。

 出来るだけ秘密裏にやってきたemptyhouseが会社の人にばれてしまいましたので、しばらくはemptyhouseはお休みです。リンクも外しました。女々しい話ですが、いざばれてみてこんなに恥ずかしいとは思わなんだ。で考えた結果友人に送っていたfuckweeknewsが復活です。下世話な名前ですがどうか一つ。
 恥ずかしい原因を考えてみたんだけど、やっぱ「自分の事を話題にしている」ってのがこっぱっずかしいよね。もっとフィクションを書ける能力があればいいんだろうけれど、そういうの苦手。結局自分の事が一番書きやすいんだよね。そうか、日記覗かれるようなもんか。だから恥ずかしいんだな。
 ちょっと水をやらないでいたらしおしおになっていたバジルをみて思う。人間やっぱ贅沢でない基本が大事だと。バジルの鉢を飾ったって、栄養剤与えたって意味がない。まずは水が足りるだけあって、足場がしっかりしてこそ色々な次があるんだと思った。
 これは人間にもいえること。でも人間はその水が何であるか分からなくって、贅沢に迷ったり、貧相に強がったりしている。
 僕等の水。透明で見えなくて、つかみきれない、ありふれたもの。






99.8.13
映画機材

 夢を見るには何が必要なんでしょう。
 それは多分、考える頭とまぶたの裏側だと思う。
 頭が「夢」の映写機で、それがまぶたの裏というスクリーンに映し出される。

 僕等がいつも見ている物は立体で、スクリーンには映らない。
 夢は僕が見る物。現実はそこに映される物なのだ。

 僕等は毎日毎日、夢と現実という二つの映像の間を行き来する。
 その二つを、同じ景色に重ねたいというのが、欲望という物なのだろうか。

 夢は少なからず僕がコントロールできる物。
 でも現実はそうもいかない。

 夢は限りなく自由だけれども、現実に比べると、ずっとずっと奥行きがない。
 だから、現実の世界で夢を叶える人。その創造力というものは、すごい力だと思う。

 夢は自由だからこそ、叶えるためにある。






99.8.8
帰省中、だらだらお気楽日記

 ファイルメーカーで作ったヤマト便用のファイルメーカー書類のアップデート作業のためだけ。それだけのために土日を要して帰省しました。今回は結構手入れをしたので大変でしたが、なんてったって家族にはパソコンを分かる人がいないので、私がわざわざ帰るわけです。あほらしいといえばあほらしいですね。効率化の為にパソコンを入れたのに、こんなところでコストが出てしまいました。今回は親のご厚意にあずかって、運賃と少しのバイト代がでました。
 静岡に帰るときまって富士山が見えないんですが、いま新幹線の中からは真っ青の富士を左手に眺めることができます。新富士駅を出たすぐ後なら右手にはこれまた青々した田圃がうち続いています。やや日が傾き、西日が強くなる時間に、これはいい景色。田畑という物が日本から段々なくなっていくというのは、やっぱり寂しい物です。と、同時にかなり危険だと思う。でも家は家業が農家。私が多分引き継ぐんだろうけど、私はその時どういう判断をするのでしょうか・・・。

 駅に停車中は人の行き来がはげしいです。あと、パソコンを使っているとやっぱり覗かれたりもする。でも全然そんなのオッケイです。覗きまくってください。旅の移動時間をどうやって過ごすのか。それは旅の出来映えを決める要素の一つなんですが、パソコンというのはどうなんでしょうかね。ま、パソコンという選択肢が出来たこと自体は喜ばしいことなんですけどね。
 iBookを車内で使っている人。はやくみたいですね。

 iBookといえば、そのスペックとAirPortが日本でつかえるかどうか。それが個人的な関心事なんですが、どちらにもいい回答が帰ってきそうですね。
 iBookは重さ意外のスペックは問題なさそうですね。内蔵マイクつくみたいですから。OS9になったら音声認識でのログイン機能がつきますからねぇ。その楽しみをそれだけで持ち運べないなんてことは考えたくないっすよ。あとのスペックはRevが上がっていけばだんだんよくなるでしょう。液晶サイズももう少しよくなるだろうし、重さも絶対軽くなりますって。そして最終的には「持ち運べるMac」っていうのは、技術的な底上げが解決してくれると思う。「サブノート」ってカテゴリがずっと存在し続けるのではなく、Powerbook全体が軽くなって「サブノート」のカテゴリもかねるようになるのだと思う。そうなった時のBook全体の製品群、是非見てみたいと思う。
 AirPortの使用しているプロトコルって、どうやら日本でも標準として使用できそうです。したがって、建築法の問題で販売できないってのも、ないと思うよ。
 そういう細かいスペックよりも大事なことは、まだコンピューターを持っていない人たちが「10万以下のiMac、15万以下のiBook」を買うことが出来るか。そして「1万円の追加で無線ネットワークを手に入れることができるか」という事だと思う。その2点について「コンシューマ」でアップルは頑張るべきだと思う。個人的には。
 今は信じられないけれど、紙が一般人には高価だった時代があった。そしてそれは庶民の値段になっていった。コンピューターは紙よりもずっと息の長い消耗品だけれど、そういう方向にコンピューター業界全体が流れていくのは必死だと思う。

 それより、サーバ関係とかグラフィック、印刷関係はどうなっていくんだろうね。他のサイトを見ていると、そういう部分での牽引がAppleには足りないように思えるんだよね。素人の俺にいわせれば「rest of US」のためにコンピュータを作ってきたAppleには是非「rest of US」のためのサーバ製品やグラフィック、印刷製品を出して欲しいと思う。ハイエンドマシンでなくても僕はいいんだけど、でもそういう要望を満たしていけば、自然とスペックもハイエンドにならざるをえないと思う。
 「rest of US」と「Pro」というねじれの位置にあるジャンルを不思議と結びつけた存在。それがAppleでありMacであると思う。だから、高く難しい目標であるけれど、そういう満足を満たす芸術を是非見せて欲しいと思う。っていうか芸術以外でそれを満たすのは無理だと思うんだ。Appleはコンシューマーに強いけれど、芸術会社が本質なんじゃなかろうか、と思っている。

 今お金を使う人って貴重だよね。俺は給料が多少上がってときに、財形を倍の値段にしてしまったよ。個人的に大きなお金が欲しいから、がんばってためるけれども。俺にしてこうだから、お金今使う人は貴重なお客様だ。
 おれは会社に入るときに15万円で暮らしていけるよう計画をたてた。実際入社したばっかりの頃はホントに手取り15万位だった。そして農家の息子である俺は一生その金額だと思ってた。馬鹿だ。でも段々と給料も上がり、給料-15万円の余剰分が出てきた。でもそれが不思議と残らないんだ。やっぱりおごってきて、なにかしらに使っているんだよね。で、今年。去年わすれた財形の金額変更をしたんだ。変更後はじめて入った給料、16万ちょこちょこしか残りませんでした。痛かったね。それで暮らしていた2年前の自分を「偉い」と思った。そして今そういうリセットした生活が始まっている。給料は手にしたときに既にひかれている金額は、ちょっとすればそういうものだと慣れますね。これは昔から。

 弟の結婚もハイペースで進んでいるけれども、おれはこれに関しては部外者だなぁと思う。結局結婚するのは弟だし、生活の場が東京にあるから、具体的に時間を割いたりアドバイスしたり作業を手伝って上げたり、進行したりできないしね。ま、あたえられた仕事を頑張るのが一番の孝行かなぁ、と思っています。でも話自体はよく伝わってこないので、おれは多分当日まで実感がわかないと思います。弟といえども他人だからね。祝福はあるけれど、いらない手助けする時間は僕にも余っていませんからね。「頑張って下さい。」ってのが、僕の率直な感想です。まあいろいろめんどくさいんだけれど、やっぱり時間がたつと冷めてくる物なんですよ。なんでも。

 最近怒りっぽくなったっていうか、やっと怒るようになりましたね。感情にいらぬ遠慮がなくなってきました。この前は警察で怒り沸騰しましたけれど、場所が場所だけに机をたたく程度でとめておきました。軽くね。コンビニでもかるくカウンターを蹴ってきました。
 ちゅうと半端な態度はまだいいにしても、失礼だとか理不尽な態度、行動、物事。こういうのがかなり許せなくなってきましたね。最近は。多分頑固になったってことだと思うんだけど、ひとつひとつに真剣に、こだわって向き合うようになった証拠だとも思う。怒れない人の遠慮の理由ってのもよくわかるんですけれどもね。最近そういう壁を越えるようになりましたね。
 でも同時に、「いる遠慮」もなくなってきたんですよね。行き過ぎって奴ですか。そういうのも困りものですよね。上手な人ってのは本当にバランスの達人ですよね。食べ過ぎしないように、万事において行きすぎない。たいしたもんだと思います。マジで。
 あと、さすがに仕事ではまだまだ怒れません。怒ることよりも理論的な説明が大事だとおもうんですよ。でも、それを説明されている方は、ぐちぐちやられているみたいで結構つらいみたいなんですけどね。そういう意味では怒りデビュー、まだまだ怒り下手だということですか。

 ま、色々書きましたけど、そろそろつかれて来たんで筆をおこうかと思います。いま、新幹線は小田原をとっくにでて、新横浜に向かっています。ちょっと効きすぎのクーラーで、鼻水でそうなんですよね。日も大分沈みました。暗い景色がよけい寒さを感じさせます。トンネルと壁ばっかで、窓の外は退屈になってきました。時折見える景色なんてのもね、アパートばっか。つまらない窓ですよね。いつのまにかもう、こんな景色。僕の故郷もこんなふうになるんですかね。暮らすために楽しくなくなるんですかね。いつのまにか。

 一帯分だけ夕焼け色の地平線です。新幹線がたどり着く頃、目的地は夜です。


 目的地は『夜』


 誰の旅路もそうなのでしょうか。
 といっているうちにまもなく新横浜です。


今新横浜を過ぎました。newtonを出して、ためといたgetsoulを書き記します。

よく考えると世界のあちこちにこれだけ信号機があるっていう事実がすごい。






99.8.7
コントロール

 最近、仕事帰りは一喜一憂してますね。
 windowsのセッター出しに進展があったと喜べば、新しい意見や物があるのに、どうして周りは批判する前に、まずその存在を認めないのだろう、とか。
 まあ、一憂の方が圧倒的に多い帰り道ですね。

 地下鉄を待ちながらふと、「コントロールできないもの」の存在が気になる。結局変わらない、自分のエゴや理想、提案通りに動かない環境というのは必ずあるものなのだと気づく。で、今関わっている周囲はどっちなのかと思う。人間だから変わる資質はある。けれど変わる意志がない。勇気が、真剣さがわいてこない。そういう感じでしょう。
 そういう中で自分がいるためには「融通の利かない環境の中にいられるよう、自分をコントロールする」ことも必要なんだとこれまた気づく。そう思うと、大分無理をしているような気もする自分。焦ったり傲慢だったりするのではないのかな、とも。まあ、疲れてどうにかならないよう、ガスを抜いてやって、また明日に挑むだけ。

 ふと、目をやる。競馬新聞を見ている人がいて、はっとする。

 競馬というコントロールできない環境がでそろった新聞を目にしながら、それを一生懸命当てようと思うのか、自分の思い道理にしようと企むのか。とにかく、自分の力の及ばない物に向かい、如何に自分をコントロールして、望む結果を得ようかと考え、実践するサラリーマンが地下鉄に一人。

 当たり馬券が如何に奇跡かって、遠くの私は思った。






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