愛情や信用はヘソクリくらいの勘定でいい
昨日久々に腹が立つ案件が個人であったのですが、いつまでも怒っていても仕方がありません。怒っている理由はだいたい「自分が相手にしないようにしていることをされたとき」なのですが、それは自分の普段の心がけに泥を塗られた気持ちになったからです。
怒りをおさめるべく、あるいは収まらないながらも呟いた中に「ああ、そうか。こういうことなのか」と思ったことがあったので、整理して書き記します。
形のないものに形を作るな。数のないものに数を作るな。
普段僕らは
- 見えないものを見えるように(可視化)
- 数がないものに数値を与える(数値化)
するのが仕事です。これはこれで大事なこと。でもそうしてはいけないこともあります。
それが「愛情」とか「信用」みたいなもの。
相手の行動や言葉を通じて、愛情や信用を僕らが受け取ったとき。逆の立場なら「相手が自分に愛情や信用を感じた時」のこと。
相手の「受けとったもの」に対してこちらが勝手に
- 物差しを当てたりしない(形にしようとしない)
- 測ろうとしない(数字にしようようとしない)
これが本当に大事なことだと再確認しました。
形にしたり測ったりするのがなぜいけないのか。形が見えたり数量化すると、人はそれを「運用」しようとするからです。
「失礼な言動をしても、愛情を理由にそれを許してもらう」これは「理不尽に理由をつける行為」です。
「運用」は損得計算です。では、信用や愛情における損得計算とはなんなのか。
- 失礼なことをしても、信用の貯金があるからまだ大丈夫だろう
- 相手にぞんざいであっても、愛情の貯金がまだあるから大丈夫だろう
愛情や信用を担保に、相手に失礼やぞんざいな態度を取る。そのくせ、愛情や信用を理由に「自分が傷つかない許されるよう」仕向けること。これこそが「信用や愛情における損得計算」です。
このような「失礼な言動をしても、愛情を理由にそれを許してもらう行為」は、どこまでいっても「理不尽に理由をつける行為」でしかありません。
論理的ではないかもしれませんが、こういうことを昔の人は「品がない」と言ったのでしょう。僕にとってそれは今もです。なぜ品がないのがいけないのか。
その人の価値を「ゼロ」に感じる
それは、そういう相手に対して「冷める」から。冷めた相手に、価値を感じる人はいません。価値はゼロになる。自分の価値が「ゼロ」になったら、それこそ意味がない。「運用」自体を遠ざけるために、「形にしたり数字にすること」を避けるのです。
もう一つ問題があります。運用に慣れれば慣れるほど。こういうことをやる人は、最初に設定した数値を大体動かします。だいたい大きい方に。癖が悪くなるんです。
愛情や信用は形がない。与えた数字は自分が当てをつけたものですから、自分の物差しひとつで大きくも小さくもできるのです。運用に慣れてくると欲がでます。
- この前の施しは相手にとっては本当に大事だっただろう。だからもう少し失礼があっても大丈夫だろう。
自分勝手な解釈で元ある数字をもっと大きくして、粉飾で計算をするようになるのです。その上、もっと怖いのは、自意識なくこういう考えになってしまうこと。
粉飾を蓄積し、自分が大丈夫と思う以上に「失礼やぞんざいな扱い」をしてしまう。自分は「大丈夫だろう」と思っていても、本当は良くない状態になっている。そのこと自体を認識できななってしまった時には、いよいよ最悪です。
もうひとつ忘れないように書いておきます。こういう運用をしている人は、間違いなく記帳をしません。なので、使ったことを忘れています。都合の良い記憶に頼った収支は、そもそも計算が合わなくなっているのです。
愛情とかそういう無形のものを数値化して、ぎりぎりまで消耗しようとするな、そういう計算をするな
「善行や信用があっても数値化するな」ということだと思います。かといって。自分が実際にかけた言葉や施しを「ない」と思うのも無理があります。なぜなら、本当にあることだから。ない、とするこで自分を苦しくしてしまいっても意味がありません。
結局はその人の捉え方、握り方、ということだと思うのです。その塩梅が私としては「愛情や信用はヘソクリくらいの勘定でいい」という、タイトルくらいの感じで良いのかな、と。
人に期待しすぎず。かといって無にもせず。
信用や愛情があるということが「いざってときのアバウトな担保になるかもな」くらいが日々の自分の過ごし方にとってちょうど良いのではないか。そんなことを再確認しました。
更新 2022月02日03 15時37分