過剰な表現になれてしまうと、その出現回数も過剰になって、周りから引いてみられてしまう。

昔のテレビだったり、バラエティだったり。いろんな媒体で面白くしようとして「過剰な表現を使う」場面がある。これ自体は僕は全く問題ないと思っているのだけれど、子育ての場面ではやはり面倒になることが多い。

テレビで冗談で言ってる「死ねー!」というセリフを、子供もそのまま使ってしまう。子供はそれが面白かったから、その面白さの感動のまま使うのだ。

そこに親は訂正を入れる。「あれはテレビだからそういう表現を使っているけれど、友達とかにそういう言葉を言ってはダメだよ」子供は理解するけれど、理不尽な部分もあるだろう。だったらなぜテレビでそんな言葉を使うのか。でもそれでいいと思う。

生活の常識とエンタメの常識。世の中にはいろんな現場の常識があるし、それらを一つ一つ覚えていけばいい。言葉自体の棘の問題もあるけれど、それ以上に「どういう意図でその言葉を使うのか」という、その人の意思や意図。それらの源泉を育てていくことのほうがもっと大事だ。

大人はわかっているのに。それでも、そういう過剰な表現が気持ち良くなる場所がある。それがSNSだ。大人も、そして子供もSNSの毒気には結構弱い。

SNSでは発言は言葉にするのではなくタイプする。音にならない。そして過剰な表現は、同じ意見を持つ人には賞賛されやすい。賞賛はいいねの数に変わる。いいねの数と積み重なるスピードが、自分も気づかなかった承認欲求を満たす、この上ない体感になる。それが癖になると、また過剰な表現で、同じリターンを得ようとする。

こういうことを自然と、自分が気付かぬうちにやってしまうこと。過剰な表現とSNSの組み合わせの怖さだ。過剰な表現とSNSは混ぜるな危険というよりも、ダメ、絶対に近い。幼児と老人が似ているように、この両者がよりこの魅力に取り込まれやすいのも怖い。でも中年でも青年でも。怖いのは実はみんな同じだ。

これらを自覚するには、一度ツイートを音読してみるのも良いと思う。あるいは音読してからツイートする、とか。そんなのめんどくさいと書いている自分も思うのだが、そうしなければいつまでも気付けないと思う。

立ち止まって、手間をかけて、確認する。この沼はとにかく落ちるスピードが速い。できるだけ早く気付かないと、取り返しのつかないことになってしまう。それが一番怖いのだ。

「声に出したいツイート」を目指すくらいでちょうどいいと思う。「声に出せないツイート」を自分が気がつかないうちに量産してしまうと、その時には自分の周りにいた人は、そっとその人をミュートして遠ざける。それでもフォロワーの数は変わらないから、そのことに気づくチャンスはない。SNSは試練だ。


更新 2022月04日06 08時52分

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勝又孝幸

株式会社データファーム

FileMakerシステム制作を中心とする「株式会社データファーム」という小さな会社の代表です。2007年から趣味で書いている日記を個人ブログとして現在も続けています。

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