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日記も書かんと!

と言うわけで日記です。日記を書かずに今は会社のX(旧ツイッター)でまずは一ヶ月色々実験をと思ってやっています。それはそれでやりますが、やっぱ日記書かないとダメですね。黒くなる。

自分の中に思っているあれこれがあって、それを書き出すことで、自分の荷物を軽くしてるんだなと。

書く時も一応内容を吟味してますので、そこでの取捨選択で、いろんな気持ちの汚れ物を確認したり、捨てたりしているんだなと改めて感じました。

なので今日は日記を書きます。いつもよりは少し長めで。

ジャニーズの騒動の真実はさておき。エンタメは視聴者が幅広いので、すっかりSNSが

「今見える魔女狩り」

みたくなってしまって、メンタル的には非常に悪影響。

それを見て言いたいこともあるけれど、言えばどこで火がつくか分からないしね。threadsの方が全然平和で、そこは「ありがとうマーク」って感じです。

記者会見の記事を流し読みしている中で「これは都市部とか核家族が進んだ現代だと分かりにくいだろうな」って思ったことがあります。

それがジュリーさんの立場と行動の限界について。ジュリーさん個人の能力や性格は関係ありません。その立ち位置の難しさについて思うことがあったのです。

田舎に行くとまだまだ家長制度とか根強くて、その経験がないとわからない、想像できないこと。それがジュリーさんの立場にあったのかな、と思いました。

以下私の勝手な感想、個人の意見です。

地位(あるいは資産)もあります、お金もありますという高齢者はわりと多くて、それ自体は何ら問題ではないです。でもそこに家長制度とか老齢化が入ってくると、なかなか人の話が聞けなくなることが多い。

でも、聞けなくなるだけなら問題ないのです。

子供とか自分より一世代、二世代下の人から「そこがおかしいですよ、間違ってますよ」って指摘が入った時に。「そうですね」って言える人は残念ながらかなり少ない。

でも、これも実は問題ではありません。

「そんなこと言われる筋合いはない」とか「そんなことはお前は言わなくていい」とか。

指摘をくれた人に対して「攻撃したい人」が割と多いんです。そしてその人は残念ながら、基本的に一生変わらない。

ここが問題、癌なんです。

言われた相手には仕事や立場もあるし、お金だってある。「そんな自分が、何を人に言われる必要があるんだ」という前提がまずあるようです。こういう気概の人も、ぱっと見は普通の人なので、外から見て判別することはかなり難しいです。

なにより、仕事やお金は、大体の人にあるものです。大小の差はあるでしょうが、そこで人の上下を図るべきではありません。

仮に全くなかったとしても。だからといって「良くないもの」が「良いと許される」訳でもありません。

この図式がまあ変わらない。びっくりするくらい変わらない。もっと言えばその人に、今まであった立場やお金がなくなっても変わらない。

そこから先は人間性と感情論の話になっちゃうのですよね。「ここが間違ってますよ」って指摘してくれる人を、ばんばん攻撃し続けるのです。

いよいよ悪い話ですが、言われた方は理不尽だし言葉の悪さに傷ついたことは覚えています。その人がいる間は、少なくとも忘れることはないでしょう。

でも、言った相手は割と簡単に忘れてしまいます。その後に妙に優しくなったり、あるいはまた攻撃してきたり。こうなると、とにかく理解できないし、気持ち悪い。

だから周りの人は「当たり障りない」対応で自分の身の安全を最優先します。結果、相手は「自分は間違ってない」という誤解を、正々堂々とするようになる。

「無敵の老人」の完成です。

今話題のジャニーズの問題も、本来は加害者が存命中に出てくるべきです。それが今こうして語られるのは、残念ながら本人たちがいなくなって、やっと上記の形が崩れたから。

今回のケースは「そうなるまでどうにもならない」というものだと私は想像しています。だからといってこれでいいとは思っていません。

本来はこのような「無敵の老人」を生み出す仕組みこそが、未来に残してはいけない負債なのだと思います。ただこのあたりは、社会的な話ではなく「あくまで個人間」の問題で、社会や制度が入り込むのは難しい部分です。

もちろん自分も「将来の老人」です。だからこそ改めて重要な課題だな、と思っています。

記者会見で表に立った方達も、他人の行った罪の責任に対応しています(今後その方達の罪が出てくるかもしれませんが)

ここまで書いたような仕組みに紐づけた想像、感想を持った私としては、個人的には同情も多いところです。

自分の身に置き換えて、当時自分が同じ立場にいたとして何ができるのか。何ができないのか。できないことを「すべきこと」として、一方的に相手の状況を理解せずに迫ることは、私はすべきではないと思います。

それをすればその刃は自分にそのまま帰ってきますし、正論ほど「実現が難しい」こともないからです。

それでもそれを実現するには。周りと協力して社会を良くしていこうという態度が必要で「自分以外にどれだけ、どうやって奉仕できるか」というフェーズになってくると思います。

自分以外への負担やアプローチを厭う現在で、どうやってそれを実現できるのか。これが未来への大きなテーマだと思います。

その上で改めて「自分を棚に上げて相手を責める」は、態度としては全く逆です。身近な関係性でもそうなのですが「変える」のではなく「直す」ことしかできないのでは。最近特にそう思っています。



更新 2023月09日14 10時44分

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勝又孝幸

株式会社データファーム

FileMakerシステム制作を中心とする「株式会社データファーム」という小さな会社の代表です。2007年から趣味で書いている日記を個人ブログとして現在も続けています。

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